第10話

 立冬を幾日か過ぎたその夜道は、まるで獲物が通るのを待つ蛇のようだった。
 辺り一帯のビル群が三日月の光を拒み、薄暗いコンクリート小路を更に黒く塗りつぶしている。手狭な路地にしては妙に坂道が多い。おまけに歩きにくい道にも関わらず、何故だが電灯は数えるほどしか設置されていない。
 むしろあえて暗くして人が通るのを避けているような印象さえあった。

 そんな怪しい暗がりを私達三人はわざわざ選んでいる。
 当然ながら、時間と共に私の足取りは引っ張られるように遅くなっていく。
 薄墨のような空気が顔を掠めて後方に抜けていくたびに、つられて振り返りそうになってしまう。まるで暗夜に意思があって、油断した隙をついて呑み込もうとしているかのようだ。
 道案内をする悠希が私達の前を歩いていなければ、とっくに立ち止まっていたでしょう。
 
「あの、本当にこっちなんですか?」
「もう少しだ」

 何度目か分からない不安の種を投げ掛ける私に、悠希はまるで振り返らずにそう応えては、淡々と闇の中へと歩いていく。
 これだけ暗いというのに、悠希はまるで躊躇することがない。通い慣れた職場というのもあるのかもしれないけど、手前数メートルほどの視界しかないこの路地を、昼下がりの散歩のように悠々と進んでいかれると、こちらとしても追い付くのが段々としんどくなってくる。
 後ろからは俊介ご主人様が私よりも大きく息を切らす声が聞こえる。不規則なリズムの足音からして、不安を噛み殺してえっちらおっちらと両脚を動かしていることが窺える。
 肉体のサイズからして彼は精神的にも肉体的にも丈夫なタイプではなさそうだ。
 振り替える勇気はないけれど、いつの間にか置いていってしまうのでは、と少し心配になる。

「改めて聞くが、───葵は今アタシの、"榎本悠希に関しての記憶"だけが無いと。それでいいんだな?」

 歩く先を見つめたまま、悠希が声をかけてくる。
 それと同時に、一瞬だけあの鮮やかなナイルグリーンの翼が(今は大人しく畳まれているが)カサリと膨らんだように見えた。
 見た目は一見落ち着いて見えても、放たれている感情の波は未だに隠しきれていない。さっきから視線を合わせてこないのもそのせいなのかもしれない。
 私は無用な波紋を作らないように、静かに同意の言葉だけを述べる。
 
「俺や店のことは、覚えているらしいんだけどね。一部分のみの記憶喪失なんて、あり得るのかな?」

 後ろから、俊介ご主人様が途切れつつも質問を投げてくる。
 当事者からはあまりあれこれと無遠慮に喋りづらいので、助かると言えば助かる。

「アタシも専門家じゃないから分からん。だが健忘症状ってのは、むしろそっちの方が一般的ではあるらしいとは聞いた」

 俊介ご主人様と悠希が、唸りながら、ほぼ同時に狭い夜空を仰ぎみる。
 その様子をみるだけで、火にくべた紙みたいに周囲と胸の奥が黙々と煙たくなってくる。
 だから、つい聞いてしまった。

「あの……お二人は、どういったご関係なのですか?」
「あっ?」
「いや、えぇと……」

 悠希のやさぐれた反応に、つい身体が怖じけついてしまった。自分でも今のは失言だったと分かる。
 悠希のその態度も決して話の邪魔をしたからとか、そういうものではないと気づいているのにだ。

 (どうして私は、こんなにも余計なことばかり……)

「……あぁ、そうか。心配すんな。別にそんなんじゃねぇよ」

 しかし悠希は急に何かを納得したように肩を抜いてそう告げる。
 
「そうだね。知り合ったのもつい最近だしね」
「最近、ですか」
「そこからか……まぁ、そうだよな」 
 
 その時ちらりとだけ見えた悠希の表情。
 憐れむような、悲しむような、何かを無理矢理磨り潰されたようなしかめっ面。
 それを見た途端、いつのまにか頭をもだけた罪悪感に、背後から胸元にグサリと刃を立てられる。
 このサンダーバード、以前の私を相当気に入っていたんでしょうか。
 何故私にはこの魔物との記憶がないのか、言い様のない違和感を覚えてしまう。 

「……すみません」
「いいんだよ別に。さてどこから話そうかね?」
 
 私のお粗末な謝罪にも悠希はすぐに苦渋の色をおさめて、快く答える。
 そして、今まで彼女が私と築いてきた交流を話してくれた。

 悠希が店に来た日のこと。
 その夜にもう一度出会ったこと。
 私を悠希の仕事場の音楽スタッフに勧誘するつもりで、それからこの店に入り浸るようになったこと。
 俊介ご主人様とはその流れで出会ってすぐに仲良くなったこと。
 そして店の客に怒りを露にしたせいで、店に顔を出しづらい状態だったこと。

 悠希から語られた出来事を聞いて、残念ながらそれが実感として思い出すことはほとんどなかった。
 どれも
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