第8話

(……ねぇ)

 途切れ途切れの声と共に最初に得た感覚は聴覚だった。
 視界も、匂いも、手も足の触感も、熱さも冷たさも何も感じない。それ以外に知覚ができない。
 そもそも自分にそんなことができるのかさえも疑えてしまうほどに、何もかもが曖昧だった。 

(……ねぇ……ねぇってば)
 
 周囲には暗闇のみが広がっている。
 否、視覚がないから、正確には暗闇というものがよく分からない。多分そのはずだろう、という気がするだけだ。
 自分と暗闇の境に何があるかを感じ取れない。そのかわり、自分が何かの器に詰め込まれているかのような、その場にぼんやりと固定されている印象だけがある。しかしこれといって圧迫感もない。むしろその器に入っていることで、自分の意識が支えられているような気もしてくる。

(……もしかして、見えていない?)

 声は時計の振り子のように、その器を挟んだ向こう側から、途切れることなく、優しく繰り返される。
 それが自分を待っているのだとようやく気づき、意識を声へと集中させると、曖昧だった自分の器が少しずつ具体的な輪郭を持ち始めた。
 ゆっくりと布に水が染み渡るように、自分と周りの空気との境目が感じ取れる。
 ここまで来るとやっと理解できる。
 "自分は自分の意思を持った存在"だと。

(声は、聞こえてる?)
 
 次第に呼び声と一緒に、ガヤついた騒音も飛び込んできた。
 どうやら自分は随分と騒がしい場所に居るらしい。
 しかし環境音が分かれば、おのずと呼び主の位置も分かってくる。
 この声は存外に近い所にいる。
 自分のすぐ目の前。前方1.5m。そこから聞こえてくる。
 しかし依然と感じるのは声のみで、視界も触覚もシャットアウトされたままだ。

(まいったなぁ。反応がないぞ)
 
 違う。聞こえている。
 自分はここにいるのだ。
 だが自分には音を聞くことしかできない。応える術が何もない。
 この声の持ち主は何者だ? 貴方は誰だ?
 人なのか? 男か女か? はたまた別の生き物なのか?

 分からない。1つだけ言えるのは貴方が自分を呼んでいるということだけ。
 分からないということが悔しい。
 応えねば。何でもいい。何でもいいから自分を伝えられるものを、何か聴覚以外に……そうだ。嗅覚だ。
 それを思い付いた途端、私の二つの耳の間に何か、丸みを帯びた、それでいて主張の激しいものが充満していることに気がつく。

 これは知っている。匂いというものだ。
 そしてこれはそう、甘い。甘い匂いだ。
しかもかなりきつい類いの。むせ返りそうとはこういうことか。
 匂いの正体はたしか、乳製品の、生クリームの匂いだ。
 すでにこの空間自体に匂いが染みついているらしい。それを防ぐには自分の鼻を押さえるしかない。
 ―――すると今度は、いつの間にか自分の斜め下に腕が現れた。
 植物の種が一瞬で生えて成長したかのようでもあり、同時に自分には最初から備わっていたのだという気もしてくる。
 さらに脚や全身の触覚―――どこか一つの部位に気付く度に、全身に血が行き渡るみたいに、自分の身体の存在感が連鎖的に浮かび上がってくる。 

 視覚が戻ってきたのは、一番最後だった。
 遠くでぼんやりしていたものが、形と色を持ち始める。
 モノクロがカラフルに。丸が丸に。
 ピンクがピンクに。コーヒーがコーヒーに。
 視界に映るものが一つ一つ、光を帯びて装飾されていく。
 
 ああ、見える。
 目の前に貴方がいる。
 たとえ自分には見えなくても、何も出来なくても、この人には見えている。
 そして声の主は、自分が応えることを望んでいる。
 この人は、自分の存在を望んでいる。

 応えねば、応えなくては―――



―――――


 
「大丈夫かい。顔色悪いよ?」

 気が付くと目の前で太った男が、眉をハの字に垂らしていた。
 男が身につけているTシャツは汗染みだらけだ。こんな秋の終わりにそんなに暑いはずはないのに。
 彼の不安と汗に満ちた顔をしばらく見つめている内に、その原因が目前の私であることを理解する。
 
「……ええ、大丈夫ですぅ。少し目眩がしただけで」
「本当に休んでなくて良いのかい? 秋も終わりだし、無理するとまた体調崩すよ?」
「ありがとうございますぅ。店長にも今日は早めに上がるように言われていますので」
「なら、いいけど」

 心配そうな顔で覗き込んでくる彼に、私は軽く笑みを返す。
 どうやら意識がどこかに飛んでいたらしい。浮き足立つというか、積木を引き抜いたかのようにストンと抜け落ちていたような。そんな感覚の後味に少しばかりの恐怖感がよぎる。
 
 いけない、今は仕事中だ。
 一つ一つ散らかった脳内を整理するように、私は直近の記憶を反芻する。ポツポツとした記
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