第6話

「よぉ、葵。元気か?」
「……今しがた、無くなりましたよ」

 その軽快な挨拶と共に、私の気力がボトボトと削ぎ落とされていく。
 流石に聞き飽きた。
 と、私がそう思っている間にも、すでに声の持ち主
#8212;――榎本悠希は足を止めることなく入店する。
 いつものステージ前のカウンター席へと鎮座し、刺々しい右翼で扇ぐような仕草で私に注文を通す。

「へへ、今日もアレを頼むぜ」
「またですか……あぁいえ。かしこまりました、お嬢様」

 最後の一言にはなかなか慣れず、ついおざなりに応対する。
 ガサツで粗野な悠希のどこに『お嬢様』なんて言葉が当てはまるというのかしら。

「いつもいつも、どれだけ暇なんですか?」
「何言ってんだ。暇じゃねえ奴がバンドなんてやらねぇよ」
「またそんな同業者に喧嘩を売るようなことを……」
「虚勢を吐くのもバンドマンの仕事のうちさ。いいじゃねえか。夜はちゃんと仕事しているんだから」

 悪びれもせずにそう告げる悠希を、返事も返さないでじぃっとだけ睨み返す。 
 
「今更疑うなよ……本当フリーターじゃないってば。マジで」

 何を言わずとも伝わったのか。
 悠希が勘弁してくれとばかりに苦言を漏らす。

「いえ別に。代金の支払いさえして頂ければ、何も文句はございませんので」
「へいへい。今日はえらく刺々してんなぁ」
「そんなことありませんよ。どこかの胡散臭い鳥さんが、何度もしつこくパンケーキを囓りにやって来たからって、そんなことではイラっとしません」
「メイド喫茶のメイドがこんなひねくれ無愛想な娘でいいもんなのかね……?」
「他の方にはちゃんと応対していますので」
「え、何? アタシだけ特別扱い? やめろよ興奮するだろうが」
「注文通してきますねー」

 華麗にスルーしてキッチンへと踵を返す。 
 何度もこの手の会話をこなしてきた賜物というべきか。

 悠希が初めてブルーバードに来てから一週間ほど経つ。
 悩みの種だったはずの彼女の扱いにも段々と慣れてきて、今ではこうしたスルーパスが日常業務の一つと化している。 
 ご主人様の写真の一件以来、何故だか悠希はここへ毎日欠かさずに通い続けていた。
 いつも夕方近くになると、悠希はフラッとやって来て、朝飯代わりだとあの特大の要塞パンケーキを必ず食べる。
 食後は俊介ご主人様や他のメイドと適当にお喋りして、日が沈み切った頃にはまたフラつきながら帰っていく。

 ただそれだけの流れを今日までずっと、ずっと悠希は繰り返していた。

 人を食ったような道化的態度はそのままで、これと言って何かをするわけでもない。
あくまでただのメイド喫茶【ブルーバード】のお客様の一人として、ひたすらに入り浸っていた。初めて会った日の夜のような、あの不穏な雰囲気な立ち振る舞いも、ここのところは全く見せていない。
 この一週間も気づけば経っていたという方が正しく、悠希の存在はすでに喫茶の日常に溶けきっていた。
 まるでこれからもずっと通い続けるかのような気さえしてくるほどに、それはあまりにも自然で。

 だからこそなのか、その不自然さがぬぐえなかった。
 違和感や警戒心こそ薄くなったとはいえ、悠希のことを何の屈託もなく信用しきれるといえば、ノーだ。
 むしろ逆に何もしないというのが、何かの前触れかのようで気にかかってしまう。
 悠希がただのピエロではないことを知っている分、その不信感は私の心にひどく絡みつくように根を下ろしていた。
 それでもまぁ別に、なにか問題を起こさない限りはこちらも特に何をするつもりもないけども。
 それに悠希ばかりを構っているほど、私は暇ではない。
 抱える問題は他にもあるのだから。

 店の存続のこと。
 ご主人様の写真のこと。
 あの謎のノイズのこと。

 頭の片隅には、いつもそれらの問題が燻っていた。
 
 本当のところは、まだ何も解決していない。
 なのにこうして何気なく、しがないメイド喫茶のバイト暮らしの日々を過ごしてしまっている。やるべきことを何一つ理解せず、成さないままに。
 ―――正直、焦りを感じていた。
 夏休みの宿題を投げ出して遊び呆けているかのような。
 吊り橋の上で辛うじてバランスを保っているような。

 そんな奇妙な浮遊感が私に張り付いたまま、離れようとしてくれない。
 安寧と雑務の日々で塗りつぶそうとしても、落ち着かない感情が冷や汗と共に背中に滲んで、私の歩みを幾度無く無意味に押し早める。
 本当は、今ここに立っていることすらも悪いことであると思えて仕方なかった。

「早く、何かをしなければいけないのに」

 呟いた言葉さえも、不思議と他の誰かにそう言われているかのように感じられた。
 


―――――



「おお来た来た、いただきやすっ
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