第2話

「夕ご飯、面倒ね……」

 あまりの辛さに現実逃避を口に出してみたけれど、時間は速度を緩めることなく流れていく。私の脳内が、一秒が一瞬にも永遠にも思えるような、生温い泥沼の思考に埋もれている。
 昼間のあの一件以来、どうも調子が良くない。今日のバイトはいつも以上に疲れた気がする。
 私は店のタイムレコーダーを目前に、ぽつねんと立ち尽くしている。
 レコーダーに表示された時刻はすでに22時半を回っていた。
 
 私がやるべきことは一つだけ。
 だけどそれと向き合いたくなくて、ぎこちなく背後を振り返る。

 皿洗いはOK、床の掃除も終わった。
 食材の在庫のチェック、音響機材等の片付けも大丈夫。
 売り上げの計算も、あとは店長の最終計算を残すのみ。

 完ぺきね。
 本当に、悲しいくらいに完ぺきだわ。
 
 本来なら良いことなのに、今日ばかりは喜べるはずもなかった。
 それに、仕事が残っていないことくらい分かっている。帰りたくなくて、ここで何度目かも分からないくらいに、確認作業を繰り返しているのだから。

 私がやるべきことは一つだけ。
 それは、この手に持ったタイムカードを押すことのみ。
 分かってはいるのだけども、どうしても腕が持ち上がらないのだ。
 
『閉店後、また来る。話はそこでする』
  
 まただ。
 私は顔を横に振って、きゅうと力強く瞼を閉じる。
 頭の中で何回も繰り返される、あの鳥のさえずりに身悶えてしまいそう。
 まさか本当に、あのサンダーバードが今も待っているとは思いたくない。
 だけど可能性というものは存在するだけで、これでもかと精神に訴えかけてくる。
 
「お疲れさまでしたぁ〜」

 すると更衣室のある後ろの通路の方から、複数の甘めの声が重なって響いてくる。
 それと同時に、私と同じく帰り支度を整えた他のメイド達がぞろぞろと現れる。
 茫然と立ったままの私に、メイド達の訝しい視線が集中する。

「……お疲れさまでしたぁ〜」
「お疲れさま、でした」

 互いに業務的な挨拶しか口にしない。
 メイド達は、用は済んだとばかりに私の脇をさっさと通りすぎる。
 そして、一人、また一人と。
 彼女たちが矢継ぎ早にタイムカードを押していく。 
 目の前のレコーダーは次々と刺されるカードを、流れ作業的に何度も吸い込んでは退勤の二文字を刻みつける。 
 別に私はメイドたちと仲が悪いわけではないし、いつものことだ。
 最初は『メイド兼音響担当』という特殊な立場が原因ではないかと思っていたけれど、どうにも違うらしい。

 だけど、今さらそんなことでは悩まない。
 関わり方なんてそうそう変えられるものではないし、私ももう深く考える気はない。彼女たちだって、私なんかよりも大切な彼氏や旦那がいるはずだ。いや、これから探すのかもしれない。
 どっちにしても、単なる仕事の同僚なんかに力を割くのは惜しいはずよ。

 ただ一名を、除いて。

「ナベちゃん?」

 やがて連続する打刻音が途切れる頃、その誰かが私の後ろから声をかけてくる。

「あ……お疲れ様でした」

 私は声をかけてきた相手に軽く会釈を返す。
 そこにいたのは、帰り際のシュロさんだった。

「皆、着替えて帰っちゃったわよ?」
「えぇ。その、お手洗いに……」
「あら、そう」
 
 シュロさんはすでにメイド服を着替え終わっていた。
 上半身にはゆったりした白のニットを着込み、腰周りには膝上丈の黒いフレアスカートをふわりと漂わせている。色合いやデザイン自体はとてもシンプルなものだけど、それゆえにシュロさんのスタイルの良さが際立つ。
 彼女の足元からはショゴスの特徴である、紫色の不定形な触手がいくつも伸びている。
 その中で一番太い二本が、人間の足のように黒いパンプスとネイビーのニーソックスを身に付けている。
 人と同じ衣服のはずなのに、それらは違和感を発するどころか、むしろどこかの裕福な家庭の娘さんのような気品に満ちていた。
 
「はぁ、だから言ったのに」

 ファッションを食い入るようにじっと見つめすぎたせいか、シュロさんに心配そうに顔をのぞき込まれる。

「まだ昼のこと、引きづっているの?」

 自分の悩みの種が筒抜けなことに、思わず肩が跳ねる。

「そんなに、表に出ていました?」
「出過ぎ。今日はもう大丈夫だから、明日はご主人様達の前でそんな顔しないようにね?」
「……すみませんでした」
 
 柔らかい言い回しながらも、手厳しい叱咤だった。
 私は平謝りするものの、それさえもシュロさんの手の平によって止められてしまう。

「いいのいいの。知らない相手にいきなり絡まれたら、そりゃ調子崩すわよ。ただ崩れたのなら無理をしちゃダメよ」

 暗い雰囲気にならならないよう、シュロさんは明る
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