「ねぇナベちゃん、面白いから今度の休みに見に行こうよぉ、劇場版『0(ラブ)ライフ惨社員』」
私の目の前のテーブルカウンターに、興味のないアニメをひたすら紹介をし続ける小太りの青年がいる。
べっとりと湿った汗が吹き出る手のひらが、私の手を絡めとるように握っている。
本当はこの手も振り払わないといけないのだけれど、下手に拒絶して騒がれたらと思うと抵抗できない。
もう世間は段々と涼しくなってきたというのに、彼のTシャツには臭気を放つ汗じみの沼が広がっている。
その下にあるベージュのチノパンも、膝元の生地が擦れて薄くなっていて、涼しさに拍車をかけている。
くわえて、汗とニキビにまみれたその顔。
彼を形成するもの全てが、彼から秋という季節を奪っていた。
この不細工な男を、私は「ご主人様」と呼んでいる。
(ああ、早く裏手に戻って手を洗いたい)
しかし今は仕事中。
ましてや接待の最中に席を外すわけにはいけない。
「もう、だめですよぉ俊介ご主人様。そういうお店じゃないんですからぁ」
私は不快さを顔に出さないよう精一杯の笑顔を取り繕う。
鼻の上から音を放り投げるイメージで、自分でも不自然に思うほどに甘ったるい作り声を何とか絞り出す。
「へへ……ごめんね。ナベちゃんがかわいくてつい」
すると俊介ご主人様はすこぶる気を良くしたようで、ニタリと笑う。
爽やかなスーツの青年の方ならともかく、ご主人様みたいなピザに言われても全然嬉しくないのよね。
しかし、物事には嫌でも首を縦に振らないといけない時もある。
「そんな恥ずかしいこと言わないで下さいよぉ〜。でもありがとぉ。キキーモラの私にとってココは天職ね
#9829;」
私はあざとくスカートを翻しながら、体をくねらせてポーズをとる。
すると予想通りに、俊介ご主人様はさらに口元を持ち上げる。
だけども、彼の舐め回すような視線を責めることは出来なかった。
私は彼の熱烈な視姦の元凶である、自分の格好をちらりと見る。
このメイド喫茶のアルバイトを初めて何ヵ月か経つけど、ここのメイド服には未だに慣れない。
まさにそれは、男の卑猥な欲望を具現化させたような逸品だった。
フレンチメイドをベースにした、水色のミニスカートの要所にフリルのリボンがいくつも付けられている。
エプロンには、派手で真白い大量のフリルが。
背中には、プラバン製の青い小さな羽がちょこんと装飾されている。
なのに、胸元だけはぽっかりと空いているところが実にあざとい。
自前の狼の尻尾や獣耳には、ひときわ大きな水色のリボンとカチューシャが、当の本人以上に自己主張をしている。
(もう少しバイト先を粘って、ヴィクトリアンタイプのメイド服のところを探すべきだった……なんて、今まで一体何回考えたかしらね)
私は目の前でヘラヘラとにやけるご主人様の顔を直視しないよう、彼の顎の辺りに視線を下げる。
本当の主従の関係だったのなら、こんな不適切な行為は決してしないのでしょう。
だけど、それはあくまで本物のメイドの話。
私がこの男のことをご主人様と呼ぶのは、あくまでもこのメイド喫茶内でのみだからだ。いったんこの店から彼が出てしまえば、この関係は成り立たない。
それに何回か会っていれば、その相手の人となりというのは大概分かってくる。
特に『その人がどういう理由で、自分と関わりたがっている』のか、そんなものはすぐにでも。
目の前の太った男が、決して"私に会いに来ている"わけではないという事も。
ご主人様はまだアニメを語り足りないらしく、更に話を続ける。
そろそろ解放して欲しいわ。
まだ仕事が残っているのに。
「ナベちゃーん。そろそろ、はじめていい?」
密かに辟易する私を見て、助け船を出してくれたのか。
後方から、穏やかな声量の割に、やけに楽しげな声が私のニックネームを呼ぶ。
「あ、シュロちゃん!」
とたんに俊介ご主人様が身を乗り出して、その声の持ち主に手を振る。
そこには私の先輩メイドであるシュロさんが立っていた。
彼女はこちらへ近づきながら、右手をヒラヒラと振ってご主人様に応える。
それを見て気を良くしたのか。
俊介ご主人様が妙にかん高い声を発する。
「シュロちゃん!もしかして、これから『ご奉仕』の時間かいっ
#8265;」
脇から見ていても、彼のテンションが明らかに上がっているのが分かる。
私にアニメを語っている時もすごいけど、シュロさんと話している時の方がもっと高い気がする。
でも、それもそのはずだった。
このメイド喫茶でのご指名率ナンバー1。
休日はご指名の声を独占するほどで、まさしくココの看板娘
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