SideU

 「うっ……」

 開け放った白い扉のその向こうから飛び込んできたのは、眩しいくらいの青白い光だった。今まで暗闇の路地にいたせいで思わず目を細める。
 しかし最初こそは驚いたものの、その光には不思議と煩わしさがなかった。
 光は弱くはなかったが決して刺激的なものではなく、網膜全体を優しく包み込むような、とても淡く柔らかな印象だった。

 やがて、瞳もそれに次第に慣れてくる。
 僕は恐る恐る、その光の方に向かって瞼を開いていく。

 すると目の前に現れたのは、巨大な月だった。

「室内だろ、ここ……」
 
 視界のほとんどを青い月光が埋めつくしていた。
 

 おかしい。
 部屋の中に入ったはずなのに、月がある?

 部屋の隅々まで青色に染まったその空間は、部屋ごと宙へ浮き上がるようで、どこか現実離れしていた。
 その光景を眺めているだけで、本当に異世界にでも紛れ込んでしまったのでは錯覚してしまう。
 が、そんな僕をあえて落ち着かせるかのように、青い月光は優しく降り注ぐ。
 
 その光を受けて、やがて狼狽した心を取り戻すと、僕は月の周囲をよく見渡してみる。するとやはりここは異世界ではない、紛れもない現実のものであることに気がついた。
 月は限りなく本物に近いが、よく見ると明らかに通常のものに比べて大きすぎる。
 大きな月の正体、それは半径3m以上もある丸いスクリーンだった。
 最初の青い光も、その丸いスクリーンの裏にある照明から発せられているものらしい。スクリーン全体には天井にぶら下がった映写機の幻灯により、デコボコの月面が細部にわたって映し出されていた。その質感と迫力は、本物を持ってきたのかと錯覚してしまうほどのリアリティを放っている。
 普段見ている小さな月がこうして目前で大きく見せられると、いかに月というものが荘厳なものなのかを教えられるようだった。何を語るでもなくそこにただ浮かぶだけのはずの月に、僕の目は自然と何度も惹き付けてしまう。
 この月の映像は一体どこから仕入れたのだろう?
 まるで月を中継して映しているみたいな空気感。この月を作った人は、よほどのこだわりがあったのだろう。ただのコピー&ペーストで見せられる様な単純さではないことは分かるが、詳細を聞いてみたいものだ。
 
 (っと、いけない。)

 そのデザインとこだわりにあまりに感心してしまい、思わずここに来た目的を忘れてしまいそうになる。
 そうだ、今は科白を探しに来たんだった。
 僕はようやく、月以外のものに視線を送る。月の周辺にはダークブラウンの木製の丸い椅子とテーブルがいくつも並んでいる。そこにはちらほらと座っている者もいて、どうやら何かの店であることが窺えた。
 薄暗いのでどんな人が座っているかは分からないが、おそらくその中に科白ではないだろうということは分かった。

「あら、初めての方ですか?」

 僕の挙動不審な様子が伝わってしまったのだろうか。
 聞こえてきたのは、穏やかでややハスキー気味な女性の声だった。
 その声のする方を振り向くと、黒いエプロンを身に着けた二十代後半くらいの若い女性が立っていた。髪は柔らかそうな紫のセミロングで、その手元にはワインのグラスと白いタオルが握られている。
 僕は彼女のその姿と、その立っている場所を見てようやくこの場所が一体何なのかを把握したのだった。

「ここは、バー……?」

「はい、正解です。どうぞこちらに」

 店員の前には、テーブルと同じく木目の模様が主体のバーカウンターが設置されていた。カウンターの脇には小さなライトに照らされた真っ赤な唐笠が設置されていて、全体的に和のレイアウトが意識されている。
 表に店の名を示す看板がなかったのは、いわゆる隠れバーという奴だからなのだろう。
 店員は物腰柔らかく微笑むと、近くの空席に向けて右手を差し出す。

「どこでも構いませんよ。立って話すのも何ですから」

 僕は少しだけ考える。
 科白を探す前に、ここがどんな場所かを知っておくべきだろう。
 しかし、科白のことだからてっきり男漁りかと思ったが、意外に酒の方だったか。
 ここもどうやら、怪しい店ではありそうだが……。
 店員に変に怪しまれたくはないし、しばらく客のふりをして様子を見てみることにするか。

 僕は店員に言われるがまま、空いている席へ腰を下ろす。
 隣の席には先客がいた。おそらく外回りか何かでよれよれになったであろうスーツを着たサラリーマンが、その背中を丸めて座っていた。
 彼の目は、一般的なサラリーマンらしく死んでいた。が、そこから出る視線には随分と熱が込められているようだった。そしてその視線は真っ直ぐ店員の方へと向けられている。

 なるほど。
 心を奪われているのが、火を見るより明らかだった。

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