いつからだろう。
憧れに煩わしさを感じるようになったのは。
「……あ……りさん。……つかれ……です」
辺りを漂う蚊の鳴き声の方がよほどうるさく聞こえるくらいの、小さな声で科白祈里(かしろ いのり)は呟いた。途切れ途切れに聞こえる労いの言葉らしきものは、彼女との会話に慣れた僕でさえ何とか聞き取れるほどであった。
「ええ……お疲れ様です」
科白の事務机には大量の本のゲラ刷りや契約書類などが、向きもそろえず無造作に積み重ねられている。そのおかげで僕らがお互いに姿を直視することはない。たとえ僕が細目でじろりと見下ろしても、気付かれないのが幸いだ。なにか余計な思考が生まれる前に、さっさと作業場を後にした方がいい。
僕は逃げるように作業場の木製のドアに多少力を込め、無造作に作業場の出入口をこじ開ける。とたんに湿気を含んだ空気が僕の顔面中にべったりと張り付いてきた。その鬱陶しさを拭いたくて、何度も鼻の頭周りを指で擦る。
だが鼻につくその原因は、決して湿気などのせいではなかった。
「……もう七月だってのに、いい加減に梅雨が明けてくれよ」
―――――
僕、或森夕輔(あるもり ゆうすけ)の夢は、装丁家になることだった。
きっかけは確か、小学生の時に読んだ子供向けのファンタジー小説のハードカバーのデザインがやたらお気に入りだったことだ。
何処かの島の自然の風景の中に、不自然なくらいなほど赤く染まった石がおかれている写真。それが切手風の額に縁どられ、散りばめられたその本に、当時少年だった僕の心は激しく動かされた。書物というものがインテリアにもなりうると知ったのもその頃だった。
いつかこんな素敵な本を作ってみたい―――
そう思うようになった原点、それが装丁家である「科白祈里」のデビュー作であり、彼女との一度目の出会いだった。
装丁家とは、本の表紙やタイトルカバーなどの本の造形デザインする仕事だ。小説やエッセイ、雑誌などの本の内容に合ったデザインを作成し、それを出版社や著者に提供することが主な内容だ。
大抵の場合はコスト削減のため、出版社がそういったデザインのチームを作ってしまうことが多い。だが売り上げやこだわりの作品作りのために、わざわざ専門の装丁家にデザインを依頼してくることもある。
事の発端は数ヵ月前。
僕は才能と出会いに恵まれずに就職先が決まらないまま、デザイン専門学校を卒業を控えていた。焦りに背中を突かれて余裕のなかった僕の前に突如として、彼女の事務所がアシスタントの募集を見かけたことで、全てが狂い始めたのだ。
白状すると、その時は恥ずかしながら、僕は運命というものを信じてしまっていた。
その当時、僕は就職難で冷静さを欠いていた。
とにかく仕事を見つけることに躍起になっていたといっていい。だから学校の就職活動コーナーで科白祈里の事務所名を見つけた後のことは実はあまり覚えていない。あまりの衝撃のせいで正確な記憶がされていないのだ。
科白祈里は、書籍界隈では著名な装丁家だった。
高い技術力と異世界からやって来たような異質な発想、そしてメールアドレスと事務所名以外のプロフィールを明かさないという、ミステリアスな存在であることでも知られていた。
気づいた時には半ば飛び付くようにして、僕は彼女の事務所に履歴書等を送りつけていた。
無論、怪しいとは思わなったといえば嘘になる。
科白のような売れっ子がなぜこんな中堅専門学校でアシスタントを募集するのか、理由が分からなかった。
だが卒業間近の僕にはそんなことを考える余裕はなかった。むしろその秘匿性が、逆に掘り出し物を見つけたような高揚感を生み出していたのだとさえ思う。
そして思い込みとは怖く、競争率も高いであろう科白祈里のアシに見事選ばれた時には、僕は完全に舞い上がってしまっていた。さも自分があの科白祈里に見込まれて、選び抜かれたかのような、己がさも未来ある若者なのではないかといった、どこかおめでたい勘違いをしていたのだ。
だけど、現実はそう甘くはなかった。
空気にまだ冷たさが残る四月の頃。科白の神秘性を守るために最終選考が終わってからようやく、事務所の住所を紹介された。
そして、この職場のドアを開けた時、僕は現実を思い知った。
『は、初めまして!或森夕輔と申します。本日からお世話になりま……』
『ひっ……やだ、帰って……!』
二度目の出会いは、随分と辛辣なものであった。
今思えば初対面でその扱いはどうかと思ったが、その時の僕の頭にはそれも気にならないくらいの衝撃が駆け巡っていた。
彼女の事務所は一言で言えば、ゴミ屋敷というべき状態だった。
インスタント食品の器と食べ散らかした菓
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