俺は仕事なんて嫌いだ。
いつだって、そいつのせいで俺は損をする。
既に夜は十分にふけっていた。
坂道の多い通勤路を、俺は疲労の溜まり切った両脚を必死に引きづりながら歩いている。周りの店や建物は戸締まりを終えていて、明かりなんてどこも灯っていない。
今宵は新月。俺の歩く道なんぞ月は照らしてはくれない。
その代わりにあるといえば、わずかな星の光と全自動で点灯する無機質な街灯。だがそれらも月の光にはどこか敵わない。こんな暗い夜道を歩くものなんて、俺のようなしがないサラリーマンだけだろう。
俺は自分の左手の腕時計を重たそうに顔に近づける。今からじゃ走っても大して変わらないか。
今日も今日とて辛い一日であった。
ここ最近は繁忙期のせいか、ひたすらに残業と激務が続いている。
最後の2時間は特に最悪だった。
こんな残業をすることに果たして何の意味があるのかと。
こんなに必死になってまで俺が会社にしがみついて存在する必要があるのかと。
仕事中、日がな一日、泥臭く萎びた思考が俺の脳の中を満たしていた。
せめて表に出ないように、精一杯取り繕って堪えていた自分を誉めてやりたいくらいだった。
一つ歩くたびに目の奥で、残業で酷使されて、タプタプと溜まりまくった疲労と不快感の波がたつ。それだけが今日の俺に唯一残されたものだと思うと、なんだか乾いた笑いが出てくる。
坂道を下っていくにつれて、小さな星々と人工の光は建物に遮られていく。同時に、情けなく丸まった俺の背中も色を失っていく。まるでゆっくりと暗闇の沼に沈んでいくような錯覚さえ覚えるが、今はその沼にいち早く浸かってしまいたかった。
いや、もうよそう。
仕事は終わった。終わったのだ。
今日はもう何も考えないことにする。
幸いにして今日は週末だ。今の俺にはそんなことに不平不満に漏らすよりも大事な約束がある、いや正確にはあったのだが。
とうに彼女との約束の時間は過ぎてしまった。だがそれでも最低限の誠意は見せないといけないだろう。
やがて俺は目的の場所がある、ひと際薄暗い裏通りへとたどり着いた。
すると不思議なもので、疲れ果てたはずの身体にいつの間にか力が入るようになった。通い慣れた藍色の夜道に入るだけで、猫背だったはずの背中はシャンと伸びていく。暗闇が深まるほど、反対にその歩幅と速度は高揚し、前進する。
目的地は、もうすぐだ。
次第に奥の方からポツリと一つの小さな明かりが浮かび、近づいてくる。
それは緑と黒色のゴツゴツしたフレームのカンテラの光だった。カンテラは壁に打ち付けられた金属製のフックに吊り下げられていて飾り気がない。
だが、それでいい。
無理に目立たれるとミーハーな客が増えてしまうと困る。
俺はその光の元までたどり着くと、その前で立ち止まる。
明かりの隣にある白いフェイバーグラスの扉を見つめて、一度深く息を吐き出す。
そしてくたびれたスーツの襟元を正し、袖にシワがよっていないかの身だしなみをチェックをする。別にそんな些細なことを気にする彼女ではないけれど、一応だ。
周りの建物によって光は完全に遮られてしまっているが、その不格好なカンテラのおかげでドアノブを見失うことはない。
よし。
気合いを入れ終わった俺は、緩い歩調で手前にある段差を上る。
そして、白い無地の扉に手をかけて、ゆっくりと開く。
―――カラン。
扉の上部についた錆びたベルが軽く安っぽい音を立てる。
通いなれた今となっては、この不細工な音が堪らなく心地が良い。
聞き馴じんだその音が店内に響き切る前に、「店の中から」眩しいくらいに輝いた、鮮やかな青白い満月の明かりが差し込んできた。
無論、この満月は本物ではない。
店の奥の壁に設置された直径3m以上はあるであろう巨大な丸いスクリーン。そこへ向けて特殊なプロジェクターから、満月の映像が投射されているのである。その映像は月面のクレーターの一つ一つまでを鮮明に映し出していて、まるで店の中に本物の月が浮かんでいるように見えるというわけだ。
俺は美麗な月が一番良く映えるカウンター席へと近づいていく。
だけど、俺は「その月」を見るためにそこを選ぶわけじゃない。
目当ての席の目の前に立つと、カウンター越しのセミロングの女性店員がこちらに気付く。
「あら、雄二さん。」
ややハスキー気味で落ち着いた声が、朗らかに俺の名前を呼ぶ。それが俺の幸せに一層強く拍車をかける。
「……こんばんは、深月さん。」
毎回、声が上ずりそうになるのを堪えるのが大変だ。
つい緩みそうな口元を誤魔化すために、俺は少し大袈裟に会釈を返す。たった五文字の言葉を聞くだけでこんなにも心地の良い気分に浸れ
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