死体

「…ちょっと休んでいい?疲れちゃった」

 母さんはその言葉の後、盛大に息を吐く。
そしておもむろに立ち上がると、ソファの後ろに棚の上の電気ポットを引き寄せる。
 母さんがお茶の用意をしている間、僕はうつむいた顔を上にあげ、部屋のベランダへと視線を向けた。
 カーテンの隙間から見える景色を注視してみると、いつの間にか僕らの乗る船は、目的地である本州側の港に到着していたことが分かった。
  本州側は人間が多いせいだろう。
島側の美しい青い海とは比べ物にならないに薄汚れていた。藻の色に染まった海の上に細いコンクリートの道が数本、それぞれが孤立して伸びている。
 
 その景色をみてようやく、僕は我に返った気がした。
自分の意識が見通しのきかない深海に無理やり沈められてもがき泳ぎ回るような、懺悔の時間が終わりを告げたのだ。
 ポケットの携帯電話の時計を見てみると、母さんが昔語りを話し始めてから、簡単に見積もっても二時間以上は経過しているようだった。
 他の乗客はとうに下船していて、それから新しい客が島への復路のために乗ってきているだろう。

「……部屋は空けなくても?」

 かける言葉が見つからず、思いついたものを適当に口に出してみた。

「……大丈夫よー、保存会のコネでこの部屋、往復分とっておいたからねー」
 
 背を向けたまま、母さんはお茶を注いでいる。
さすが、と思うべきなんだろうか。
 多少間はあったものの、さっきまでの重みを含んだ母さんの声調がコロリと変わる。
 奇妙なくらい、いつも通りの陽気を帯びた母さん。
 まるで佐島扶美なんていうダンピールなど、父さんを慕い続けた魔物など、初めから存在していなかったかのようだった。

 僕は体をほぐすために肩を何度も上下させる。
 かなり時間がたったおかげか、話を聞く前まで感じていた身体の痺れも解消されていた。これならもう一人でも歩けそうだ。
 ……そうやって、僕はわざとどうでもいいことを考えて、現実逃避をしている。

 僕はまた、横のベッドに寝ている父さんの方を見やる。
 母さんが話し始める前から変わらず、死んだように静かに眠っていた。
この父さんがタガネに犯されるきっかけを作ったのは、母さんだって?
 とてもじゃないが全てを信じる気にはなれなかった。
僕には全く変わらない、いつも通りの父さんにしか見えない。だけどきっと、その違いは魔物である母さんにしかわからないのだろう。
 魔力なんていうファンタジーなものは、普通の人間の僕にはその概念すら理解ができないのだ。
 同情して泣けばいいのか、怒ればいいのか分からなかった。
僕自身が何かの感情を出す行為は憚られた。

 ただ一つ、心の片隅でふと、思ってしまうのは。
母さんのダンピールの話は『僕には全く関係のない話』だということ。
 我ながら薄情だとは思う。
だがそれも仕方がないじゃないか。
 とてもじゃないが、今までの母さんの昔話に対してどう向き合えばいいのか分からない。
 というか母さんの話が例え嘘だろうが本当だろうが、そんなことはもう問題ではなかった。
 それよりも、僕が母さんやタガネの過去にとって、ただただどうしようもなく無関係な存在だったという、その事実を叩き付けられてしまったことに対してのショックが大きかった。

「何を考えているか分かるわよー。私だって分かっていたけど、その上で話したんだもの」

 見透かされた発言にはっとして、僕は母さんの顔を見た。
母さんはいつものヘラヘラとした、表面だけの笑顔を作る。

「いや、その……そんな悪い意味で」

「いいのよー別にー。仕方ないわよ。」

 数秒間のヘラヘラ笑いののち。
母さんは、間を置いて小さく口を開く。



「でも、継にだけは喋りたくなかったわ」
 
 ペラペラの笑顔のまま、母さんの声の温度が一気に冷める。
すぅっと氷が溶けたみたいに、笑みが母さんの顔からボロボロと崩れて、消え失せた。
 思わず背筋が強ばる。
瞬間冷凍されたかのような、切れ味の鋭い青色の冷ややかな視線がこちらへと飛んでくる。

「……私、この島が嫌いなの。一分一秒でもこんな所にいたくない、早く都会の家に帰りたいって、いつも思っているわ」

 そう語る母さんの背後から、ずるりと負の感情が染み出してきた。
僕は震える膝を何とか両手で抑えてその場に留まった。
留まざるを得なかったというべきだろうか。

 朗らかな性格だったはずの自分の母親が、昔から見知ったはずの顔がこうまで未知の怒気を放っているのが酷く恐ろしかった。
 
「今の都会の家に住んでいる理由はね、剛ちゃんが元から都会に住む予定だったのもあるけど、実際には私がこの島から出たかったから。強姦した喰人鬼がいる島になんか、とてもじゃないけど置いておけなかった。
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