旅人の間では、いつもいろんな噂が飛び交っていた。
あの国はそろそろ危ないぞ、その国は新しく出来た飯屋が美味い、そんな程度の噂。
観光の目安となる情報や、危機回避の情報交換は、旅人にとっては必要なもの。
その中でもまことしやかに噂されている妙な噂として、こんな話があった。
旅に疲れを感じたら、一も二もなく座り込め。
もしも無理して進み続け、歩きながら微睡んでしまったら、気をつけろ。
そこは街道なんかじゃなく、「ボタンを掛け違えた世界」かもしれない――。
――それを、まさかその時になって思い出すとは。
クラベルは後悔した。次の村が近いはずだと気をはやらせ、休憩を取らずに足を動かし続けたことを。早起きして距離を稼ごうとしたことを。歩きながら眠ってしまったことを。
まだ年若い青年であるクラベルは、得体の知れない光景に怖じ気づいていた。
無理もない。どれだけ経験・見識ある老人だろうと、困惑していたはずだから。
足下には、遊び回ったり話し込んだり喧嘩したりしている雑草。
空は青色や雲の白色ではなく、紫、黄色、茶色と気まぐれに絵の具を塗りつけているかのように変化し続ける。直視できないはずの太陽は、むしろ見せつけるように月といちゃついていた。
左右を見れば、パイプを吹かしたり肩を組んで歌っていたり野球のようなことをしている木々がある。
アリやキリギリスは彼ら植物のために枯れ葉や朽ち木などを運び、その褒美として木々に巣を作ったハチから強引に蜜を垂らしていた。不格好な化粧を施した女王バチがそれに怒ってブンブンと抗議をしている。ハチたちの間ではストライキが活発なようだ。
初め、クラベルは夢を見ているのだと思った。
しかしそれにしては色鮮やかで音もあり、よく動く。夢とはモノクロで無音の絵だった。
だからこれは現実としか思えないし――不思議の国、と言うほかなかった。
幸い、彼ら住民は基本的にクラベルには興味無い様子。
クラベルはハッと我に返り、警戒しながら先に進むことにした。
ここでこのまま突っ立っていては頭が変になると思ったからだ。
少しずつ歩いていくと、無軌道に見えた住民たちにも決まった法則があることに気づく。
彼らは自分の快楽を優先している。遊ぶこと、パイプを吹かすこと、使われることに幸せそうな顔を浮かべているのだ。自分のものを取られれば怒るのは当たり前だが。
よく耳を澄ませてみれば、森のどこかしらから女の喘ぎ声のようなものも聞こえる。
空がピンクに染まった時などは、周囲の草木や昆虫たちが一斉に盛り始める始末。
いよいよ頭がおかしくなったか、もしくはそういう場所なのか。前者であってほしかった。
年老いた木のがさがさした喘ぎを背に、クラベルは駆ける。せめて等身大の、言葉が通じる相手がいれば。
しばらく走り続け、しかしいくら走っても全然森から抜け出せない。
クラベルの不安がちな心中にどんどん焦りが膨らんでいく。
同じところをぐるぐる回っているのでは。この木をさっきも見たような。
悪態をついても、元の世界に戻れるわけではない。クラベルの心が折れるのが早いか、抜け出せるのが早いか。賭けの勝算は、クラベルにはない。
まずその前に息が切れる。あの時大人しく休んでおけば良かったと何度も後悔を重ね続ける。
――そんなだから、視界が急に開けて明るくなった時には逆に驚いた。
鳥の囁く鳴き声。青い空。揺れる木陰に、穏やかな草原。
木にもたれて昼寝している人影も見えた。
「……助かった……?」
思わずそう呟いてしまうクラベルを、誰が責められようか。
だがまだ安心はできない。油断なく逃げられるように気を配りつつ、人影に近づく。
よく見てみると魔物娘らしい。頭の上に丸い耳があり、寝間着を身につけていた。
いつもの旅路であれば魔物娘は出会いたくない相手だが、あんな場所を味わった後ではクラベルにも魔物娘に対する親しみが沸く。理解できる存在だからだ。
「おーい、ちょっといいかな」
「ん……」
とりあえず声を掛けてみるが、しかし寝ているところを無理に起こすのも悪い。そう思って、クラベルは小声で魔物娘に呼びかける。けっこう熟睡しているようで、起きる様子はない。
だがその反応で、ますますクラベルは安心した。快晴に過ごしやすい気温と、素晴らしい小春日和だ。爆睡も当然だし、その当然はクラベルにとって望ましいものだった。
魔物娘の隣に腰掛け、一息を付ける。彼女の見た目はまだまだ幼い少女で、昼寝している姿はなんとも微笑ましい。魔物娘らしく露出の多い格好をしているが、色気のカケラもない寸胴体型だ。間違いを起こすこともないだろう。
特徴からしてラージマウスのようだが、ラージマウスにしては
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