♥ワン・ステップ・クローザー

 自分が瀬戸際に立たされていることをようやく理解できたのは予備校の模試の点数が前回よりも下がっているのに愕然とした時で、ちょうどはるさんとの同棲を始めて一週間ほど経った頃だった。
 元々頭の良いほうの人間じゃなかったから、それまでの大学受験に対する周囲の熱意に充てられただけの受験勉強で点数がかさ増しされていたんだと思う。勉強は嫌じゃないし、テストは楽しいもんだと思っていたからこその点数。周囲に教えてもまぁまぁという反応を引き出す程度の、中の上は狙えるかなワンチャンあるだろ、って程度の点数だったのに。
 原因ははっきりわかってるし、理解してる。傾向と対策。それは今の俺にとって、はるさんに対して必要なものだ。実行できるかどうかは、二対八の比率で俺の不利だけど。

 ただ落ち込んでいるだけだとしても、無情にも時間だけは過ぎていくもので。
 エレベータを降りて、だるい身体を引きずって家まで歩いていく。あと二時間足らずで日付が変わるってくらいの頃に帰宅するのが予備校後の習慣になっているのは、彼女と同棲を始めたあとでも変わらなかった。
 乗り換えだとか急行停車だとかをするくらいには大きな駅がここの最寄り駅なもんで、駅周辺には今通っている予備校以外にもいくつかの予備校がある。今通っているところを選んだ理由は、もう覚えていない。友達に誘われたから、みたいなふわっとした理由だったはず。
 勉強しなきゃマズいだろうなって傍観者じみた危機感だけはその時からずっと変わらない。いやヤバいんだけど。
 鍵を取り出してロックを外し、鍵をしまいながら家に入る。玄関の電気を点けて靴を脱ぎつつ、

「ただいまー」
「おかえりーっ」

 このやり取り、一週間経ってもまだ少し恥ずかしさが残ってる。いや、一週間で慣れたら勿体無いと思うけど。それに、恥ずかしい以上に精神的な疲れが吹っ飛ぶ気もする。
 ピンクのもこもこふわふわした寝間着に身を包み、表情に喜色を湛えて玄関までてってこ歩いてくるはるさん。俺におかえりと言えることがたまらなく嬉しいというのが、いつもこうして笑顔でいてくれる理由らしい。言われた時めっちゃ照れた。

「お疲れ様、鷹見くん。お風呂先に入らせてもらっちゃった」
「別にいいって、家事してもらってるんだから。俺もさっさと入っちゃおう」
「入っちゃってー。ふふ、私の出汁がでたお湯をじっくり味わっていってね」
「デーモンが浸かったお湯ってどっかの温泉にありそうだよね」
「心の肩こりによく効きますよー」
「それ、心か肩かどっちだよ」
「両方で」
「両方かー」

 こういうの夫婦漫才っていうんだろうなぁ、とぼんやり思いながらも、どうにもはるさんは常日頃からボケに走るのを止めずにはいられないみたいだし、俺だって彼女とこうしてふざけるのは楽しいんだ。どうせ誰も見てないしな。
 荷物を自室に下ろし、青いチェストから換えの下着と寝間着を取り出す。しっかりきっちり折り畳まれているのは、これらが全部はるさんの手で洗濯と日干しだけでなく畳んで収納されていることを意味する。一人暮らしの頃と比べると家中が見違えるほどに、はるさんは家事に徹してくれていた。
 まあ、今までは俺が家事をてきとうにやってただけなんですが。


 脱衣所で脱いだ服を洗濯機に放り込み、さっさと浴室に入る。はるさんと同棲を始めてから変わったところは、浴室だって含まれている。浴室内に満たされている、フローラルな花の匂い。はるさん専用のシャンプーとリンスの匂いだ。聴いたことない名前の花、ってだけでなんだかオシャレに感じてしまう。
 初めてはるさんの後に風呂に入った時は、普段彼女と接している際に香ってくる上品で甘い匂いの元はこれだったのか、と感心してしまった。流通しているものの中でもそこそこお高めのお値段だけど、これじゃないとダメらしい。
 彼女はいつも、この匂いと共にそばに居てくれる。そういうわけでまあ、既に条件反射を植え付けられている下半身が反応してしまうんだな。男ってのは悲しいくらいに単純なんだ。はるさんもたぶんこれを狙って先に入るんだろうし。
 愚息を無視しながら髪と体を洗って流し、湯で満たされた浴槽に入る。一人しか入れない狭い浴室内なので、未だにはるさんと混浴したことはなかった。エロいとか以前に狭すぎってなると思う。

「ふぅ……」

 全身を湯に浸け、体内に溜まった疲れを息にして吐き出す。しあわせだ。
 こうして体を温めている間はすることもないので、風呂タイムは決まって顔を天井に向けて思考を巡らすようにしている。いつもはろくでもないことを考え、テスト勉強の時は暗記問題の復唱をしていた。そして今は、はるさんと試験のことを考える。

「あ゛〜〜〜……」

 家に帰ってからはずっとはるさんと遊んだりいちゃついた
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33