シ隠神ト士楽イ習見

シ隠神ト士楽イ習見


僕は廊下を少し息を切らしながら急いでいた。約束に遅れているのだ。

『すみません、少し遅くなってしまいました。"こんちぇると"の楽譜が余りにも面白かったのでつい。……観賞会まだ大丈夫ですか?』

ガラリと資料館の引き戸を開けると物静かな"れでぃ"が座っていた。彼女は薫子さん。この牡丹の花もかくやと言う黒髪の乙女は僕の身の周りの世話をしてくれている。

『はい。大丈夫ですよ。……では坊っちゃま、このスコア譜を手に。今日はガブリエリ・フォードのレクイエムを。指揮者はレオナルド・コストコスキです。』

『たしかその指揮者は合衆国人でしたね?』

『はい。……お好きですか?』

『えぇ。しかし……彼の指揮はかなり先進的で神聖なフォードの合唱とは相性が良くないのでは?』

『ふふふ……それは聴いてからのお楽しみに。さぁ、蓄音機にレコードを。』

円盤を手渡され、僕はゼンマイを巻き、意味も無く慎重に蓄音機の大きな朝顔を僕と薫子さんの座る席へと向ける。

そして、ひとたび針が音楽を記憶した円盤に落とされれば、壮麗たるレクイエムの調べと神聖への響きが僕と彼女を煩わしい世界から隔離するのだ。

正和16年……僕は父から『おまえは虚弱だから、知り合いの療養所に行きなさい。』と帝都藝術大学を休学して山ノ梨県の高原地帯のとある療養所へと押し込められたのだ。



その意味する事は僕にも察しが付いた。



僕の父親は四菱重工に勤める設計家であった。

第一次人間大戦、空中戦闘において航空機では魔物娘の有機的、生物的な飛行能力に対して全く対応出来ないと証明された。人魔中立国であるアルカナ合衆国との軋轢を深めた今次、強力な航空勢力を持つそれらの国に対し驚異と危機感を感じた我が国は航空技術の抜本的な改革を余儀なくされたのだ。

その様な状況に置かれ、魔力蒸気機関を用いての立体機動装置の開発に着手した。僕の父は立体機動装置における姿勢制御ともう一つなにかの機械の開発に携わっていたようだ。

そうして社会的な地位を得た父は、僕が兵役に取られ無いように私的に権力を使い、僕を戦争から遠ざける為に山深いこの療養所へと追いやったのだ。

尤も、生来身体が余り丈夫では無いので僕が軍隊に志願するなり、赤紙を頂戴したとしても、とてもでは無いが到底御国の役に立つ事は出来ないであろう。

この山は良い。澄んだ空気と、もえるような緑は不思議と体に馴染む様な気がして、ともなれば音楽家を目指す自身にはお誂え向きの環境と思えてやまない。

マスメディアたるラジオもラウンジに一つ古いのがポツリとあるだけで、新聞は来ない。

世俗とは隔離されてしまっているようだが、ここに居れば下界では聴く事が出来ない仮想敵国である合衆国やブリタニア連合王国やファラン共和国、シャーロ共産連邦の音楽、スコアーに譜面、それらの国で書かれた小説や童話や寓話や絵画に触れられるのだ。

まるで都会の喧騒を嫌い、愛人と2人ひっそりと山奥に引き篭もった印象作曲家……例えばクプラン氏のようなロマンチズムを満喫していた。

薫子さん……僕の事を坊っちゃまと呼ぶ彼女はこの療養所の看護師で、身の回りの世話をしてくれている。少し目上で、美しく、上品で理知的であり、芸術にも深い趣向を持つようで、貴い生まれの御息女か、それとも名のある旧家の令嬢か。何故こんな所でこんな看護の仕事をしているのかと尋ねてみれば、花嫁修行の一貫とそう言っていた。僕との話しも合い、観賞会と称して時折療養所にある資料館にて音楽の喜びを分かち合っている。

きっかけは、暇を持て余したのでアップライトのピアノでセバスチャンのクラビア上下巻を取り寄せ練習していた時で、薫子さんの方から声をかけてくれたのだ。





正直に言うと……僕は彼女を崇拝している。





そうしてレクイエムの最後の曲である楽園音楽イン・パラディウムが終わり、僕は何にも変え難い音楽の余韻と蓄音機の針の擦れる音が空間を支配した。今正に僕と彼女はこの聖なる時間にいる。


すると…………


『田中 英雄 君、ばんざぁーい!!』

ばんざぁーい!!

ばんざぁーい!!

ばんざぁーい!!


療養所の玄関から僕を現実へと引き摺る様に連れ戻す節操のない万歳三唱が聞こえて来たのだ。

『……慌ただしいですね。』

『えぇ……確かあの方は、四月に入って来たばかりの若い先生です。今日出立なさるのでしょう。』

『戦争が近いのですね。……軍用車……という事は彼は志願されたようですね。』

『えぇ、軍医准尉さんだそうですよ。私、戦争は嫌です。』

同感する。下界……帝都にいる時も感じていたが、戦争前夜の空気と言うものは高揚と熱を帯びた狂気を孕んでいる。きっと古今東西、戦の前とはそう言
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