貧乏画家と黒い淑女
『……もう少し……もう少しで……ゴホッ……』
パリス市の貧民街の小さなアトリエで、痩せこけた1人の男がカンバスに向かい合っていた。
絵描の名前をローラン・ルルーと言う。
歳の頃は30代中頃で、伸び放題の黒い髪を後ろに麻紐で纏め、顔には無精髭を生やしている。貧困に喘ぎ、弱々しく見えるも、眼だけはギラギラと輝いていた。
そうして描き続けること3日。
また一枚の絵が完成した。
暗い礼拝堂の中で、聖者の像の前に跪き、手を合わせ、祈るシスターの絵だ。その顔は安らぎと慈しみに満ちている。黒を基調とした暗い絵の中で彼女の顔と祈る手、奥に描かれたステンドグラスが神秘的に浮かび上がっている。
『……いい出来たが……これじゃない。ガホ……ゴホッ……』
ローランは描き終わった印象絵画を見て、そう一言呟くと絵にニスを適当に塗り、終わるとアトリエの隅に追いやった。彼のアトリエにはそういった絵が至る所に乱雑に置かれている。
そこの壁に立て掛けてある絵は、雨の日のパリスの街を描いたものだ。
散らかった机の上に放って置かれている埃を薄く被った小さな絵は、物乞いの少女の清い表情を良く表現している。
窓に吊り下げてニスを乾かしている最中の絵には葬式の列が描れていた。神父の持つ金色の杖と人々が一輪づつ持つ赤い薔薇の花だけが鮮やかに描かれ、重く悲しい雰囲気が伝わってくる。
そこにある数々の絵は繊細な筆使いで見事に描かれているが、色が少なく、暗い絵ばかりだ。絵の具が高くて買えないのである。
ローランは金と名声に無頓着な典型的な芸術家で、商売の為に絵を描く事を嫌っていた。彼は小売業を営む貧しい商人の次男坊で、15の時に家を出てからほぼ独学で絵を勉強した。物心ついた頃から絵を描くのが好きで好きで、ただそれだけで絵を極めてきた。初めは道端や公園で似顔絵を描いて日銭を稼いでいた。それから僅かなお金を貯めてアトリエとは名ばかりの貧民街の粗末なこのあばら家を買い、以後絵に没頭した。
しかし、どんなに素晴らしい絵を描いても誰も認めてはくれない。閉鎖的で貴族主義的なファラン共和国の芸術界は、著名な画家に絵を習うでも有名な美術大学で学ぶでもなかったローラン・ルルーの絵を無視し続けた。
悪い事に似顔絵で得ていた僅かな稼ぎも最近普及したカメラよって無くなってしまった。
ローランはそれでも絵を描き続け、その結果、貧乏に喘いでいる。
ただ、幸運な事に何処の界隈にも変わり者は居るもので、ローランの絵を気に入っている人物が1人いた。友人と呼べる人物かどうかはローラン自身にも良く分からないが、彼にとってそれに一番近い意味を成すその変わり者は、ひと月に何回か訪れ、アトリエに乱雑に置かれた幾つかの絵画を適当に選び、画廊商に行き、二足三文の端金にしてくれている。その金でなんとか貧乏絵描きをしながら暮らせているのだ。
『ゲホッ……』
ローランは出来上がった絵にニスを掛け、絵の具の付着した筆をボロ布で拭い、散らかった机の上に画材を置いた。そして彼は倒れるように暫く眠り、腹の虫が鳴き声を上げるままに起き、ニスの匂いが立ち込めたアトリエの中を彷徨うように歩いた。そうして見つかったのは、安い飲みかけのワインと萎びたリンゴと、いつからあるか分からない肉の塩漬け、それから絵に使う 木炭を消す為の未使用の白パンが一欠片。
ローランは萎びたリンゴを一口食べて、ワインを一口飲むとパンでも買いに行こうとコートを羽織り、キャスケット帽を被ると油絵の具とニスの匂いが立ち込めたアトリエを出た。
花の都パリスは貧民街のすぐ隣に金持ち達の華やかな街並みが広がっている。物価が高く、貧乏人はその日を生きるので精一杯だ。ローランがそれでもパリスで暮らすのは、数々の歴史的な建造物や、古い西方主神教の教会、世界中からかき集めた芸術品を展示する美術館、世界一のオペラ座に、オーケストラがあるからだ。
彼は気が向いた時や、絵の題材に困った時など教会で聖歌を聴き、美術館やオペラ座やコンサートホールに潜り込んで芸術や音楽に触れた。
貧乏はしていても、絵が認められなくても彼はこの街と芸術を愛していた。
街を歩き、市場に向かう途中でローランは黒い喪服を着た美しい女を見た。ルビーだろうか?小さな紅い石の首飾りを着けている。物憂げで今にも泣きそうな顔をしている。
『美しい……』
もし、ローランに金があったのなら、彼女に絵のモデルを頼んでいただろうが、その日のパンにも事欠くような貧乏画家にはそんな金はない。
時間にして数秒。喪服の女に心を奪われたローランがせめてその姿を忘れない様にじっと見つめる。すると女と目が合った。
『…………』
女の目は夜空のようで、その瞳から星粒のような涙が一つ
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