蠅の王国
貧しく寂れた村の古びた教会の小さな礼拝堂で年端もいかない少年が月明かりの中でお祈りをしている。
『主神よ、天の王様よ、どうか私たちをお救い下さい・・・』
その小さな祈りは礼拝堂に小さく響き、虚しく消えていった。
男の子はガブリエルと言う名前だ。苗字は無いのは彼がこの教会の孤児院で拾われ育ったからだ。金色のくしゃくしゃの髪と麻の服は畑仕事で汚れ、手は豆だらけ。少年の体で汚れていないのは翡翠色の瞳だけで、痩せこけた頬には真新しい青アザが痛々しく残っていた。兵士と役人に殴られたのだ。
彼らはランドル・ファラン王国の辺境にあるこの貧しい村のみならず、教会の孤児院からも金と食料を収奪した。
『人魔中立 ランドル・ファラン王国、シャルル・ド・ファラン14世はブリトニア連合王国並びに異端である福音主義国家との戦争に備える為の特別税を徴収する。逆らう者はシャルル14世国王陛下への不敬罪並びに国家反逆罪として処罰する。』
『やめてください。これを取られてしまったら僕たちは飢え死にしてしまいます!』
そう兵士と役人に言ったところ、彼らはガブリエルを『汚い餓鬼め!』と罵り殴り、マスケット銃を突きつけた。孤児院から収奪した食料などを馬車に積むと彼らは『主神に祈れ』と吐き捨てて去っていった。
ガブリエルはもっと自分が大きければと、もっと強ければと自分を呪った。
孤児院には小さな子供たちがたくさんいる。間も無く厳しい冬がやってくる。食料は奪われてしまった。このままだと皆んな冬に餓死してしまうのはガブリエルにも分かっている。
村の大人たちに助けを求めようにも、彼らもまた兵士と役人から収奪を受けていた。皆ひもじい思いをしていた。助けを求めたガブリエルに大人たちは『主神の奇跡を……』とそう呟くと家の戸を閉めた。
なお悪い事に、この孤児院には子供しかいないのだ。
少し前まではヨセフ神父という孤児院を切り盛りしている老神父がいた。貧しい孤児院は平時でさえ教団から十分な支援を受けられず逼迫している。物資も資金も何もかもが足りてない。それでもヨセフ神父は笑顔を絶やさず、額に汗をして畑を耕し、自分が取るべき食事を子供らに与え、『将来、これでお腹が膨れるようになりますから……』と読み書き計算などの教育を施し、養ってくれた。
子供たちの目にはヨセフ神父は聖典に出てくる聖者のように見えた。
しかし1週間ほど前、ヨセフ神父が突然行方不明になった。彼と一緒にいた年下の子供たちの話によると、畑仕事の最中に天使に連れ去られたらしい。
主神さまがそう望まれたのだから。
話を聞いたガブリエルはそう自分に言い聞かせて、ヨセフ神父の代わりになるべく朝も夜もなく畑で働き、年下の子供達にひもじい思いをさせまいと自分はろくに食べずに水で空腹を誤魔化していた。彼は頭が良く、年長者だから逼迫した教会孤児院の状況も良く知っていたのだ。
しかし今日、ガブリエルの思いも虚しく兵士と役人は孤児院の備蓄庫から何から何まで奪っていった。もはやガブリエルには祈る事以外何も出来なかった。
『僕たちはどうしたらいいのですか?』
そう語りかけるも、応える声は無い。
ガブリエルは跪いたまま、目を閉じて祈った。
"なぜアンタは祈るんだい?"
その時どこからか声が聞こえてきた。子供の声だ。孤児院の他の子供はもう寝ているはずでガブリエルに声をかける子供はいないはずだ。
『誰……?』
ブブブ……
虫の羽音が聞こえてきた。蠅だ。今は秋の終わりで季節外れだ。ガブリエルは自分の頬に冷たい汗が伝うのを感じた。羽音は次第に大きくなっていく。
ズァァァアアアアアアアアア……
ドアから入ってきた何千もの蠅は礼拝堂を埋め尽くし、徒党を組んで黒い雲の様になると人の形をとった。ガブリエルは声も出せない。ただそれを見ているだけだ。
『なぜ祈るのかと聞いたんだよ?おチビさん。』
黒い蠅の雲から出てきたのはガブリエルと同じ歳の頃の女の子……いや、少女の様だが頭からは触覚の様なものが生え、手は虫の様なかぎ爪で、背なかから髑髏の様な模様の透明な羽があり、腰からは蠅の腹の様なものが出ていた。
少女の姿の蠅の魔物は2つに束ねた月の光のような長い髪を払うと不遜に微笑んだ。
『蠅の悪魔……ベルゼビュート』
『おや、人間の癖に随分な口を利くじゃあないか?それに正しくはベルゼブブだ。ベルゼブブ。……ベルゼビュートはファラン語だ。アタシはファラン語はあんまし得意じゃない。』
悪戯っぽい表情と傲慢な声がガブリエルにまとわりつく。
『ここは祈りの家だ。お前の様なものが来るべき所ではない!』
『聖典の受け売りだよね?それ。伝説の勇者だか聖者だかが遠い昔にアタシのご先祖に言った言葉だよ。』
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