「まったくもう…。あの二人は!」
しんと静まり返る誰もいない厨房。その静寂を破って私の声が響き渡る。
我ながら苛立っているのが良く分かる甲高い声。
だって…もう準備しないと開店時間に間に合わない。
なのにあの二人はまだ姿を見せないから。
電話やメール、さらには念話まで使って連絡を取ろうとしたけど、全然返事も無い。
「ああ…もう!私一人じゃどうにもならないってのに!」
念話を使ったのは本当に久しぶり。魔力も消耗してしまった。
そのせいか余計苛々が抑えきれない。誰もいないのに大声で当り散らしてしまう。
ほんとうにバカみたいだと思う。だけどこれもみんなあの二人のせい。
全く…あの子達には困ったものだ。
でも、私も人間界に染まって来たのかな。
魔界のお店はこっちの世界のように、きちんと時間を守るなんて事はありえない。
そもそもいつ店を開けるかすら、はっきりとしていない所がほとんどだった。
私も最初、時間を守るという風習には相当戸惑った。
むしろ異様なほど潔癖で神経質な因習だとすら思ったものだ。
それがいつしか馴染み。すっかりこちらの流儀が当たり前のようになってしまった。
良い事なのか悪い事なのかわからないけど…
ため息を着く私だったけど、そのとき通用口のドアが開く音が聞こえてきた。
続けて透明感あふれる女性の声が耳朶に響く。
「エレンおはよう。」
私は思わず挨拶する声の主に非難を浴びせていた。
「おはようエステル………。で、一体今何時だと思っているのよ!」
やれやれ。ようやく出勤してきた。彼女が「あの二人」のうちの一人。
罵声に気を悪くする訳でもなく、悪びれる訳でもなく、目の前の女性は笑顔を見せた。
真紅の瞳に純白に輝く長髪。そして魔物の私でも虜になってしまいそうな絶世の美貌で…。
それなりに付き合いは長いんだけれど、彼女の笑顔の魅力には抗いがたいものがある。
彼女はリリムのエステル。当然だけれど魔王陛下の姫君の一人。
諸国遊歴の果てに、次元の扉を超えてこの世界まで流れついたらしい。
最初会った時、彼女は自分の事を色素異常のただのサキュバスといっていた。
色々口さがない事を言われるのが嫌であえて嘘を付いていたようだ。
のちにリリムだという事を打ち明けられて随分驚いたものだ。
その後色々あったが今ではごく親しい友人として付き合っている。
「ごめんなさいエレン…。うちの弟くんがわたしと離れたがらなくて。お姉ちゃんにもっとぎゅってされたい、って駄々をこねちゃったのよ。」
どことなくうっとりとした目でエステルは言った。
この弟というのは彼女が将来を誓ったひと。早い話夫という事だ。
彼女たちが出会ってからしばらくは姉弟同然のつきあいだったそうだ。
今でもその当時の呼び方が癖になってしまっているらしい。
愛する旦那様と散々まぐわって寝過ごしたのだろう。エステルは小さなあくびをした。
のんきなその様子に私は気勢を削がれてしまう。呆れてため息をついた。
「まあ、いいわ。とにかく開店の準備をしましょう。で、姉さんは?」
私の問いにエステルは首をかしげた。
「あら?マリ姉様もいないの?」
「エステルも知らないの?ああもう!どっちにしても姉さんがいないと店は回らないじゃないの!」
「ふふっ。いいじゃない。回らなければ回さなければいいわ。今日は店をお休みしましょう。わたくしも家に帰って弟くんといいことしたいし…」
エステルは苛立つ私を挑発するような太平楽な言葉を吐いた。
育ちの良さがわかる気ままな様子だが、つい八つ当たりをしてしまう。
「はあっ?そんな無責任な事できるわけないでしょ!」
むきになる私の言葉をエステルはさらりと受け流した。
「あら?なにを怒っているのかしら?そんなこと言うなんてエレンまるで人間みたい。」
エステルはおかしそうに口を押さえてくすくす笑った。
無邪気そのものといった様子に私は言葉を無くす。
なにかしら含みがあるならともかく、彼女に悪意が無いのはわかっているから。
でもこのままではどうもしゃくに障る。お返しとばかりに私は言葉を返す。
「人間で悪かったわねっ。誰かさん達がまじめに仕事しないから私がこうなっているんですけど!」
エステルはまじめな様子でかぶりをふった。
「違うわエレン。人間は素晴らしい存在よ。悪いなんて事あるわけないわ…。」
深紅の瞳は純粋そのもの。とても真っすぐだ。
皮肉を言われているとわかっているのだろうか…。
思わず脱力してしまう私の耳に、通用口から柔らかな女性の声が聞こえてきた。
「みなさんおはようございます〜。」
「おはようマリ姉。」
「マリ姉様おはよう…。」
「エレンちゃんエステル
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