目の前に広がるのは果てしない海。月明かりも無い漆黒の闇。遥か足元では岩場に叩き付ける波音。吹きすさぶ潮風は体を凍らせ、遠くでは足跡を辿る猟犬の遠吠え。
僕は追い詰められた…………。
偉大なるレスカティエ。主神様が護りたもう煌びやかな都。そこから遠く離れた寒村に僕は生まれた。貧しい村の中でも最も貧しい家の生まれ。生活に困った両親は物心ついて間もない僕を……奴隷に売った。奴隷制は法で禁じられていたが…そんなものは建前にすぎなかった。
悲惨で残酷な奴隷の生活。耐えかねた僕はとうとう逃げ出したが、身元すら定かでない逃亡奴隷に安息の日々はこなかった。
奴隷以上に惨めに這いずり回った挙句…。ついには無実の罪を着せられ追われ続けた。圧政に苦しむ庶民にとって、罪人の処刑は格好の不満のはけ口。捕えればいくばくかの報奨金も期待できる。僕は彼らからも狙われた。
そんな中、味方と言える奴がたった一人いた。逃亡の旅路で知り合った同じく逃亡中の陽気な盗賊。しばらく旅を共にしたが、追われる途中ではぐれてしまった。彼は無事に逃げ続けているのだろうか…。
そして…孤独に逃れ続けた果てに、この断崖の上に追い詰められた…………。
暗い海。荒れ狂う波音を聞きながら思い出す。幼い頃旅の吟遊詩人から聞いた詩。海には主神様とは別の女神さまがおわすという。心優しきその女神さまは、海で亡くなった者を御許に受け止め、永遠の安らぎを与えると…。
ますます近づく猟犬の鳴き声。警吏に捕えられれば、残酷な拷問を受けた後の処刑。逃れられない運命…。
ならば…海の女神さまの加護を願ってこの身を捧げよう…。
夜の闇の中で僕はひざまずいて、女神さまに祈りをささげる。
女神さま…女神さま。どうか僕をお憐れみください…
女神さま…女神さま。どうか僕をお救い下さい…
よろよろと立ち上がり…足元を見る。
足元は漆黒の闇。荒れ狂う波音。背後からは迫る猟犬の鳴き声…。絶望と恐怖に身を震わす。
ああ…今度生まれてくるのなら…。いや、苦しみだけの生など、もううんざりだ。今は海の女神さまの御許で……永遠に安らぎたいだけ。
しばし逡巡する。が…追手はすぐそこ。もう………終わりにしよう。
僕は暗闇の中に飛び降りた……。
僕は暗闇の中を落ちる…。
僕は暗闇の中を落ち続ける…。
落ちる…。
落ちる…。
落ちる…。
落ちる…。
落ちる…。
落ちる…。
落ちる…
…
…
…
…
…
…
…
…
「アレクさん…」
「アレクさん…」
「大丈夫ですか…アレクさん…」
「ねえ…しっかり…アレクさんっ!」
「アレクさぁんっ!!」
僕の名を呼ぶ女性の声…不安げな…女性の叫び声が聞こえる…。その声ではっと目を覚ました。
「………………………。」
「アレクさん…気が付かれましたか!」
目の前にいるのはぞっとする様な冷艶な女性。彼女は僕が目を覚ましたのを見てほっとした表情をする。
そう。あれは最近よく見る夢。女神さまの御許に旅立とうとした時の事。その時の事を感度も繰り返し夢に見る。
「良かったぁ…。大丈夫ですか?アレクさんずうっとうなされていましたよ。」
「あ…うん。心配かけてごめんね。」
詫びる僕を見て彼女はにこやかに笑う。透き通る様な白い肌。腰まで伸びるさらさらの長髪は薄紫色に輝いている。髪と同色の切れ長の瞳も美しい。さらに豊かな胸とくびれた腰…。一見したところどんな高級娼婦も及ばない淫らな魅力だ。
だが……その下半身は驚くべきものだ。本来2本の足がある部分からは、イカの様な10本の触手が伸びている。それは僕に優しく絡みつき、温かく包み込んでいるのだ。
彼女は異形の抱擁を強める。そして僕の頭をはち切れんばかりの胸に抱いた。
「また…あの夢でしょうか…。」
「うん……。」
「そうですか…おかわいそうに…。」
魔性の女性は優しく労わる眼差しをする。目を閉じると何やらぶつぶつ呪文を詠唱し出す。
その途端…。僕を包む彼女の体から蕩けるような力が流れ込んだ。温かい力の流れは体全体に染みわたり、いまだ残る夢の恐怖を洗い流してくれた。僕の頭は甘く蕩ける。
「ああ…気持ちいいよ…。いつもありがとうね……ララ。」
「いいえ…わたしこそもっと高度の治癒魔法を修めておくべきでしたわ…。アレクさんがこれほど苦しんでいらっしゃるのに…ろくな手助けも出来ないなんて…。」
「そんなこと言わないで…。ララがこうしてくれるからとっても落ち着くんだよ…。」
悲しげに…申し訳なさそうに俯く妖女━ララの頭を撫でる。ララは切なげにそっと笑った。
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