「暑い……。」
一体この言葉を何度口にしただろう。まだ春真っ盛りのはずなのに、今日は真夏同然の暑さだ。あいにく空調設備の無い工場勤務なので、こう暑いと汗だくになってしまう。だが、そんな今日の仕事もようやく終わった。俺はほっとした気持ちで自転車を走らせ家路を急いでいる。
お…信号が赤だ…。慌てて自転車を止めると、まだ暑いぐらいの空気がむわっと体を包んだ。たちまち汗が噴き出て、換えたばかりのTシャツに汗染みが出来る。
俺はうんざりとしてまだ高い太陽を見上げた。この街はフェーン現象とやらで時々異常な高温になる。まあいつもの事と言えばそうなのだが、季節外れのこの暑さには正直参ってしまう。
とはいえ今の会社は俺によく合っている。空調以外の労働条件は全く問題ないし、体を動かすのが好きなので現場での作業も楽しい。…とはいえ毎年暑い時期には憂鬱になってしまう訳で…。
思わずため息をついて夕方の街並みを眺める。時間が時間だけに帰宅を急ぐ人の姿が目立つが、角や尖った耳を持つ者…下半身が蛇や昆虫の姿の者…鳥の翼や獣の様な毛並みを持つ者…。そんな人ならざる異形の者達も少なくない。そう、魔物娘と言われる者たちの姿だ。
魔王の統べる王国と国交が結ばれて数十年。魔物達との共存は当然の事となり、身の回りにも当たり前の様に存在している。実際俺が勤める会社も魔物娘が経営するものだ。そして…俺の幼馴染のお姉ちゃんでもあり奥さんである人も魔物娘の一人だ……
彼女はガンダルヴァのはるちゃん。先祖は神に仕えていたらしいという由来を持つのだが、今では家族共々市井でごく普通の魔物として暮らしている。近所に住んでいた俺の事は、仲の良い弟分としていつも世話を焼いてくれており、俺も当然の様に「はる姉ちゃん」と呼んで身内同然の付き合いをしていた。
はる姉は演奏の名手であり、俺がつらい時や落ち込んでいる時はいつも傍にいて音楽を奏でてくれた。美しくも優しい旋律を聞いていると、鬱々とした気持ちなどすぐに吹き飛ぶのだ。はる姉は元気になった俺を見て朗らかに笑うと、優しく抱きしめてくれるのだが、その輝く様な褐色の羽毛に包まれると、心から幸せな気持ちになれるのだった。
そんな親しい姉弟分の付き合いがずっと続くと思っていたのだが……あれは俺が高校を卒業する少し前の事だ。いつも通り家に遊びに行くと、はる姉が見た事も無いような弦楽器を持ち出してきた。そして卒業祝いに一曲引いてあげると言われ、彼女が奏でるいつも以上に素晴らしい旋律に聞きほれた。だが、なぜか次第に頭がぼんやりとして、体が熱くなったなと思ったのだが、そこから先の記憶は無い……。
気が付いたら俺とはる姉は裸で抱き合って寝ており、にっこりとほほ笑む彼女に
「これでけいちゃんとお姉ちゃんはコイビト同士なんだよ…。」
と、甘い声で囁かれた。思わぬ事になって慌てる俺を慰める様に
「あ…でもコイビトになってもお姉ちゃんはお姉ちゃんのままだからね。いくらでも頼ってくれていいんだよ…。」
と見当違いのフォローをされて拍子抜けしてしまった。
これ以上は多くを言う事も無いだろう…。早い話俺ははる姉の魅了の力によって恋人にされてしまったのだ…。最初は正直困惑したが、独身の魔物の傍に居続ける事がどんな結果をもたらすかは承知していた。それに気心の知れた実姉同然のひとと、こうなる事を心の奥底では望んでいたと思う。
だからそれが嫌だと言う訳では無い。むしろとても幸せだと言っていい。以前と変わらず優しく世話焼きで、違うと言えばこれまで以上にべたべた甘えてくれるようになったと言うことぐらいだ。そして大好きなお姉ちゃんに甘えられると言う事は、俺にとってもとても嬉しい事なのだ。
社会に出ると当然の様にはる姉と結婚して夫婦になったが、互いに気兼ねなく甘えて甘えられて、安らぎに満ちた夫婦生活を営んでいるといってよい。誰かに問われれば文句なく幸福だと答えるだろう。だが……たった一つだけ不満と言うか困っている事があって……。
いつの間にか信号が青に変わっていた。俺は早速自転車をこぎ出す。汗ばんだ背中に風があたって心地よいが、一日の労働での饐えた汗の臭いも鼻に伝わってきて不愉快だ。
銭湯にでも寄って帰宅したいのだが、あいにくこの近辺には一件も無い。仕方なくそのまま帰宅せざるを得ない。
帰りを待ってくれている嫁さんもさぞかし不快だろう…。と思われるのだが……いや。逆だ。むしろはる姉は汗臭い俺を大喜びで迎えてくれる。
一体何の事かと思われるが、彼女はガンダルヴァ。そう、匂いや香りを食料にしていると言う特殊な魔物だ。つまり……はる姉にとって汗まみれの俺の臭いは最高のご馳走
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