天使マリエルの堕落

市街地は炎に包まれていました。

風が吹き荒れる度に火の粉が舞い上がり、その舌が次々に建物を飲み込んでいきます。はじめは数棟を焼くだけだった炎は、今では区画一体を覆う程の火災へと発展しています。周囲には人々の悲鳴が響いていました。
割れた石畳の上を煙と炎に追われながら人々と魔物たちの懸命に逃げ走っています。その姿を、私は煙に覆われた上空から見ていました。彼らは火事から逃げているのではありません。私たち教団軍から逃げているのです。恐怖に顔を引きつらせる人々を、私が祝福を授けた兵士たちが追いかけています。

殺される人には、人も魔物も老いも若いも関係ありません。家族を守ろうとする父親も、必死で子を庇う母親も、泣きじゃくる幼い子供たちも。皆、兵士たちに殺されています。
兵士たちがしている事は正しい事です。魔物は悪であり、教団は正義です。けれどこの光景を見ていると、私の中の確信が薄れていきます。

魔物である我が子を守ろうとする父親は邪悪なのか。自分の命より子供を優先する母親は許しがたい存在なのか。そして、そんな彼らを無慈悲に殺す兵士たちは絶対的に正しいのか。
泣き叫ぶ声に目を向けると、まだ年端もいかない一人の子供に、返り血を浴びた一人の兵士が剣を振り上げています。
私は咄嗟に目を逸らしました。強い罪悪感と嫌悪感が胸を締め付け、吐き気がこみ上げてきます。

気がつけば私は炎から背を向け、戦場から飛び去っていました。




パチパチというかすかな音に私はハッとして、慌てて体を起こしました。
炎の爆ぜる音と物の焼ける臭いに、あの時の忌まわしい記憶が脳裏をよぎります。胃から何かがこみ上げてくるような感覚を覚え、私は慌てて口元を押さえました。

「だ、大丈夫ですか。マリエル様」

うずくまる私の背中を、誰かが気遣わしげに撫でてくれています。かすかに顔を上げると、そこには一人の男の子の姿がありました。年の頃は十二、三歳ぐらいでしょう。背丈は私より僅かに高いぐらいで、淡い亜麻色の髪が覆う顔つきにはまだ幼さが色濃く残っています。彼はその小さな体に丈の余った白い布服を身に付けていました。その服は私が随行していた兵士たちが身に着けていたものと同じでした。

私は数日前まで、魔物と人が共存する邪悪な都市を攻撃するため、主神であるお母様の指示に従って教団の軍勢に同行していました。しかし戦場の凄惨さに恐れをなした私は、あろうことか責務を放棄してその場から逃げ出したのです。

疲弊するまで脇目も振らずに飛び続け、気づけば私は名も知らぬ森を一人で彷徨っていました。
仲間の元へ戻ろうにも力を使い切っていたため、もはや満足に空を飛ぶ事すら出来ません。そもそも、お母様から与えられた役目を放棄した私には帰るべき場所など、元からあるはずもありません。途方に暮れて宛てもなく森を歩いていた私が、この少年――エルクと出会ったのはそんな時でした。

聞けばエルクは、私が随行した軍隊に所属していた少年兵だったそうです。私はエルクから、教団軍が周辺都市からの迅速な援軍によって敗北して散り散りに壊走した事、彼自身も追っ手から必死に逃げてこの森へとやってきたという事を教えてもらいました。
それ以来、私とエルクはこうして誰もいない森の中、たった二人で行動を共にしています。

「大丈夫です…エルク。心配をかけてごめんなさい…」
「いえ、そんな…マリエル様に何かあったら、神様に申し訳ないですから」

照れ隠しをするように笑うエルクの言葉に胸が痛みます。だって私はもう御使いではないのです。その証拠に私がいくら語りかけても、お母様からの声は帰ってきません。きっとお母様は職務を放棄した私に呆れ果て、見捨てたに違いありません。
私にはもう何も残されていないのです。天使としての力も、役目も、お母様の加護も。そんな事も知らず献身的な態度で接してくれるエルクには、本当に申し訳なく思います。

「マリエル様、まだ夜明けには遠いですから、もう少しお休みになっていてください」
「いえ…私ばかり休むわけにもいきません。私が見張りをしていますから、エルクこそ休んでください」
「そんな、マリエル様にそんな事をお任せするわけにはいかないですよ!」

慌てた様子で両手を振るエルクに、私は思わず苦笑を漏らしてしまいました。エルクの態度は本当に一生懸命で、どことなく愛らしさを覚えます。例えその思いが私ではなく、その後ろにあるお母様と教会に向けられているものだとしても、私の心は満たされていくのです。

「くすっ…そんなに私は頼りないですか?」
「あ、いいえ。そんなわけでは! ただ恐れ多いというか!」
「でしたら…少し話でもしませんか? 少し目が覚めてしまいましたので」
「あ、はい。それでしたら…」

私はエルクの傍らに並んで腰
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