テオの足音と泣き声が走り去っていく。
背中を見送ることもできたが、趣味が悪い気がするのでやめた。
あばら屋の窓から、月光が差し込む。おどろおどろしかった赤い月光が、なぜか心地よい。
ざまあみろ。ざまあみろ。
どこかにいたかもしれないテオのお嫁さんになる人に、あたしは心の中だけで悪態をついた。
ざまあみろ、どこかの誰かさん。
テオがあなたのものになった運命がどこかにあったとしても、それはあたしが全部壊してやった。
あたしはテオの人生を奪ってやった。
テオから幸福も平穏も何もかも奪って、あたしだけのために生きて死ぬ機械にしてやった。
あたしの泣き顔だけを胸の奥に抱えて生きるものに。
二度と報われることのない、復讐よりも意味のない人生にした。
「……ぁ……は……」
笑い飛ばしてやろうと口を開いたが、もう声が出ない。
喉の奥から出てくるのは、掠れた息だけ。
息をするたびに、胸の奥に尖った塊ができていくようだった。
もう三日は持つまいとテオには言ったが、思ったより早くこの世とお別れできそうだ。
思い返すまでもなく、あたしにとってテオは生きる理由だったのだ。
それを自分から手放してしまった。生きているほうが、不思議だろう。
身じろぎどころか、指も動かせない。
月光に照らされていたはずの天井が暗くかすれていく。屋根越しでも見えていたはずの星を、もう数えることができない。
顔のあたりに何かが流れていく。涙が熱くも冷たくもないのは、感覚が消えてしまったせいだろうか、それとも涙がただの水気になったからだろうか。
ごめんなさい。テオ、ごめんなさい。
あたしはあなたと一緒に生きていたかった。
本当は、あなたの隣で笑っていたかった。
あなたと一緒に泣いていたかった。
あなたを助けてあげたかったし、あなたに助けて欲しかった。
でもそれは、全部無理になった。
だったらせめて、テオをあたしで縛ってしまいたかった。
あたしのために、テオを死なせてしまっても、かまわないと思った。
テオが最後に見た女の笑顔が、あたしであってほしかった。
テオが最後にキスをした女は、あたしでなければ嫌だった。
「……気持ちはわからなくもないけど、お姉さんちょっとどうかと思うな」
声が聞こえた。遠い国の楽器のように、今まで自分が確信していたものとはまるで違うところからやってきた、美しいもの。
姿が見えた。まるで崖の上に咲く花。命の危険を投げ打ってでも、自分のものにしようと思わせるような。
白い羽根を生やして、銀にも見える白い髪を腰までまっすぐ垂らして。
熾火のように静かで穏やかに、赤い眼を光らせる。そういう淫魔が、そこにいた。
まだ眼が動くことに驚いた。誰だ、と思えたのかどうか、自分でもよくわからない。
淫魔が笑った。間に合った、と安心している顔だった。もう怖くないよ、となだめる、母親の笑顔だった。
「誰だと言われると……そうね。あなたの最後の願いを踏みにじりに来た女よ」
そして、あなたの最初の願いをかなえに来た女。
手にした大鎌を振り上げながら、淫魔は確かにそう言った。
かすかに残っていた、五感が途切れて消えた。
***
地面から心地よい振動が伝わってくる。
健やかに緩い蹄の音は、ふたりきりの旅路を楽しもうとする悪戯心の表れだ。
「ヘイゼル……」
自分が見捨てて逃げた相棒の名を呟いて、テオは眼を覚ました。
「あ、起きた?」
ヘイゼルが振り返り、自分の馬体にまたがるテオを見下ろしてきた。
少し癖のある青黒い髪はを短めに切りそろえられ、ほがらかな愛嬌がにじみ出る顔には満面の笑みが浮かんでいた。
心配するような、呆れるような声色には、全く陰りがない。
胸の奥から悲しみと後悔と、それよりもずっと大きな安心といとおしさがこみ上げて。
目の前に見えたヘイゼルの背中に、テオは思い切り抱きついた。
「ヘイゼルっ!」
「わ、ちょ、まって、待って!」
ヘイゼルが慌てて道行きを止めた。
バランスを崩さなかったのは長年のつきあい故だろうか。
「もう……どうしたの、いきなり」
「よかった……ヘイゼルが生きてた……夢でよかった……本当に、よかった……」
背中に顔を埋めて、幼児のように泣きじゃくる。
泣けることが嬉しくて、後から後から涙があふれてきた。
「テオ……するの?」
何をだろう、と思って我に返る。
てのひらに心地よい重みと柔らかさがあった。
まるで自分の手にあつらえたように、布越しでも吸い付いてくるようなそれを、確かに知っているはずだった。知っていなければおかしかった。
だが、なぜか新鮮な喜びが胸の奥と、股ぐらに疼く。
「……うん。しよう、ヘイゼ
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