淫魔ウィルマリナの足音が間延びして聞こえるのは、なかば跳ぶようにして床を蹴っているからである。勢いの割に足音がほとんどしないのは、音という「行き足にならない力」が生まれぬように足を動かしているからであり、床や大気に満ちた魔力を取り込んでいるから、一歩ごとに速さを増していく。
弩から放たれた矢のような。
魔物に堕ちてからのウィルマリナの戦いぶりをこう評したものがいる。
過たず目標までの最短距離を全速をもって突き進む。
盾も鎧も知ったことかとばかりに撃ち抜いて省みない。
おおむねは同意してもいい。ウィルマリナはそう思っている。
ただ一点納得できないことがあった。
矢は撃ち手のもとへと帰ってこないのだから。
……ともあれ彼女は、激烈なまでの怒りの中にあった。
強すぎるせいで、かえって頭に血が上らずに済んでいる。
それは、早朝から動かねばならないからであった。
暗黒国家レスカティエは眠らずの国とも呼ばれ、また微睡みの国とも呼ばれる。
魔界に堕ちてからというもの、その濃密すぎる魔力は陽光を遮り、昼間は薄暗いのが当たり前となった……洗濯物がよく乾くのは魔界における七不思議のひとつに数えられる。
翻って夜となればその魔力はむしろ昼より明るく輝くのである。
いつ寝ていつ起きるべきなのか、統一した見解というものが生まれづらい風土が出来ていた。
このことは魔界における時制や労働制度の不統一を生み、魔界の軍事的政治的拡大が遅れている一因となっている。
だが裏を返せば昼間は薄暗さを理由に夫と同衾を続けられるし、夜となれば大手を振って枕を交わせる。魔物達にとっては、諸々の拡大より余程値打ちのある闇であった。
無論、それはウィルマリナとて例外ではない。
延々と続く至福の始まりである、最愛の夫の匂いと温もりに包まれて始まる朝を無粋きわまりない侵入者に妨害されたのだ。
壁を打ち壊して進まぬだけ、まだ理性的とすら言えた。
ますます速度は上がり、たたらを踏まぬためには壁や天井すら足場にしなければ追いつかない。
腰から生えた翼は時折羽ばたいてさらに速度を上げ、尾は上下左右に波打って勢いを制御する。
猛禽にたとえてまだ足りぬほどの速度となって、侵入者を。
通り過ぎた。
気がついて振り返り、慌てて腰の羽根で勢いを殺す。
ほぼ無音とすらいえた移動とは打って変わって派手な音が、普段は粘った水音と喘ぎ声ばかりの王宮に鳴り響いた。
侵入者の正体は赤い外套を羽織った人影であった。
フードを目深に被っているせいで面相はわからない。
背格好が曖昧に見えるのは隠形術でも仕込まれているのだろう。
赤外套が、やや腰を引いて腕を腰の高さまで上げる。
おそらくは何か体術の構えであろうそれを、ウィルマリナは無視した。
床を無音で蹴って1歩。柱を捉えて2歩。天井に届いて3歩。
斬りかかった場所に戻るまで、一呼吸はかからなかっただろう。
赤外套はそれを驚きもせず、最初からその位置に立っていたかのようにウィルマリナに向き直っている。
わずかに、間合いが縮んでいた。
「うぃるまりな、のーすくりむ」
大陸交易語には、きついジパング訛り。
「……お国の言葉で構いませんけど?」
流暢なジパング語がウィルマリナの口から出てきた。
ジパング生まれの妹分が出来てからというもの、必死になって覚えた言語である。知らない言葉で内緒話などされてはたまったものではないからだ。
「ここを通せば、お前は殺さない」
赤外套も、ジパング語で返した。ぼそぼそと呟く言葉には敵意も慈悲も侮りも、およそ内容にふさわしい感情の一切がない。
すでに決定した事実を淡々と読み上げているような、ひとごとじみた空虚だけがそこにある。
「……では、誰を殺すというのです」
「この先に」
最後まで喋らせる必要はなかった。
正中線をまっすぐに振り下ろし、刃を返して横薙ぎの第二撃。
たったそれだけの連携が、身を二つに割って戦う幽鬼の仕業に見えた。
双十字星。かつてレスカティエ教国最強と言われた勇者、ウィルマリナ・ノースクリムがもっとも得意としていた剣技の極み。
魔に堕ちて心を盗む術を覚え、ただ一人を胸中に宿すが故に、迷いも澱みも消えて失せたその必殺の太刀筋を。
赤外套は布一枚で避けてみせた。火の粉にも血にも見える燐光が、廊下に広がってすぐに消える。
だがそれを眺めている余裕はウィルマリナにはなかった。
反撃は、獲物を捉えた蛇に似て唐突。
刺客が手にするものとしては無骨に過ぎる山刀は断じて伊達や酔狂の類ではなく、速さといい精度といい、かつての聖騎士団で、この攻めを三合しのげるものが、果たしてどれほどいたか。
虚に見えて実、実と見
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