人生の対価


 おおかたの伝説がそうであるように、「知恵者エランの物語」もまた異説と矛盾に満ちている。
 しかし彼とその妻の運命を大きく変えた契機が「盾の大公」にまつわる物語であることは、どんな皮肉屋の吟遊詩人であれ異論を挟む余地がない。

 まだエランが知恵者とだけ呼ばれていた時代のことである。
 彼の故郷は盾の大公なる君主によって統治されていた。
 かの大公は神々より賜ったと称する大盾の加護を受け、いかなる剣や毒、病や呪い、老いすらも退け、永年の経験によってよく領地を治めていたという。
 ある時を境にして、この大公が狂を発した。
 賊を討つと称して村を焼き払い、民に重税を課して己のみが財貨を蓄え酒色を貪り、忠言を耳に入れるものを廃して甘言を重用した。
 季節を無視して働き手に労役を課し、臣下の妻や初潮さえ来ぬ幼子を後宮に入れるに至って領民は義兵を起こしたが、大公の持つ盾の加護によって傷一つ負わせることができぬままに、酒宴の余興となるばかりであった。
 そこでエランは一計を案じた。
 妻ユマの兄ヤサカを妹と偽って後宮に潜ませ、彼がサイクロプスから受け取ったという名剣をもって大盾を一刀のもとに断ち割らせたのだ。
 いままで退けてきた諸々の災いを一身に受けて大公はその生涯を終え、エランとユマは連れ添って国を出奔した。
 そこから彼らの波乱万丈の物語が始まるのである。

……というのが「知恵者エランと盾の大公の物語」の大筋である。
 一幕の立役者たるユマの兄についてはヤサカという名が伝わっているのみで、その来歴はおろか行く末も明らかでなく、この後に長く続くエランとユマの物語に一言半句も顔を出さない。
 そのためか実在が疑われたことも二度や三度ではなく、話を端折りたがる吟遊詩人は剣士の役をエラン自身に割り振ることにためらいがない。

 だが物語の沈黙にもそれなりの理由がある。
 実のところ、この剣士が物語に出来ぬほど陳腐で安易な恋の最中にあったことを知るものは、本当に少ない。

***

 澄み切った音が石造りの工房に響く。
 音律の体を成していないのは、焼けた鉄が求める最善の間隔が耳触りのいい律動から少しズレたところにあるからだ。

 刑が執行される日を知らない死罪人はこのような気分だろうか。
 己の掘った墓穴の深さを思い知り、刀鍛冶のステラは手にしたハンマーを握り直した。
 完成させた仕事に不安はない。
 いかな神々の加護とはいえ、その神々の武具を鍛えてきた自分たちサイクロプスの業をもってすれば断ち割るのは容易いはずだ。
 となれば不安は使い手の技量か?それも否だ。
 用いるに足ると思えばこそ、秘伝の限りを尽くしたのだから。
 剣士が死んだとは思っていない。
 その程度の人間ならそもそも自分の住処までやってはこれない。

 音が濁り始めた。

 報酬がきちんと払われるか否か。ステラの心中にある不安とは、身も蓋もなく表現すればこのようなことになる。
 本来であれば先払いで要求すべきそれを後回しにした理由は二つ。
 一つは依頼主があまりに必死であったこと。もう一つは、ひとえにステラ自身の恐怖であった。
 そう、恐ろしいのだ。
 報酬を踏み倒されることではない。
 報酬をあの剣士に踏み倒されることが、何よりも恐ろしい。
 臆することなく、この単眼を見据えた剣士が。
 無邪気に角に触れたがった青年が、青い肌の、火傷と刀傷だらけの手を取って喜んだ男が。
 目的を達成した途端に、苦笑あるいは怒りを浮かべて己と相対する……そんな想像が、どうしても止められないのだった。

 わだかまりに任せて振り下ろしたハンマーは、焼けた鉄に悲鳴をあげさせる結果となった。
 手に帰ってくるのは錬鉄の手応えではなく、地金から伝わってくる断末魔の声。
 中程からへし折れてしまった鉄を炉にくべ直し、この日に何度目かになる深いため息をつく。
 代々受け継がれたイグニスの炎は、己の致命的ともいえる失策を一瞬で消し去り、また元の地金を作り直す。

 迷ってはならない。迷いがあるならば槌を持ってはならない。
 なぜなら刀鍛冶に迷いを断つことはできないからだ。迷いを断ち切らせることこそが刀鍛冶の本領であるのだから。

 母親から受け継いだ最初の教えを、無言のうちに唱え直す。

 引き上げた地金が鏡のような光沢を放っていたのは一瞬のこと。
 己の異相を目の当たりにするには、十分すぎる時間だった。
 他に類を見ない単眼。どんな生き物にも似ていない肌の色。ふれあう事を拒むがごとく生えた角。
 どう見ても美しさからはかけ離れている。
 少なくとも、人が好ましく思うものではないだろう。 
 まして相手は服を替えて髪を梳くだけで女を偽れるほどの美貌だ。
 挙句の果てがこの仏頂面である。笑わぬものに
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