剣姫、牛鬼を退けて牛鬼に転ずるのこと

 牛鬼とは嵐のようなものだ。
 身を潜めて通り過ぎるのを待つよりほかに避ける手立てもないが、身を潜めていたからといって災いを受けずに済むわけでもない。

***

 人が血にまみれて高笑いする様を、美しいと思った。

 修理は自らに降りかかった返り血をぬぐうのも忘れて、そこに立ち尽くすより他になかった。

 牛鬼を追い払うのにはたっぷり二刻(四時間)ほどを要した。
 それでも日の国全てに語られるべき武勇伝であろう……牛鬼を相手にして、なんの術法も奇特も無しに、ただの二人で追い返したのだから。

 そこは戦場であった。いや、誰がそれを信じるだろう?一部始終を見ていた修理本人にしてからが信じかねるというのに。
 木々はなぎ倒され、土は吹き飛ばされて岩肌を晒し、その岩にしてからが半ば砂と化していた。城攻めの杭でも開けるのが難しそうな大穴の底には陶器のかけらのようなものが転がっている。
 その正体は牛鬼の足がたたきつけられて焼き上がった土だ。
 再びこの一帯を緑が覆うことになれば、さぞ絶景として人を呼ぶだろう。
 ただし、山が崩れてしまわぬ限りは。

 その中心に立つものが、十五、六の小娘であると、いったいこの世の誰が信じるだろう?

***

 伊吹家の紅姫は武芸の達者である。
 この意見に賛同するものは、実のところそれほど多くない。
 彼女を知るものはかぶりを振ったあとこう続けるのが常だ――――強いだの弱いだの、そのような尺度で計れるものではない。

 さらに続けるだろう。たとえば狩人の放つ矢は雷より弱い。
 だからといって狩人が恥じるだろうか?
 火矢で焼け出されたものが射手の腕前を気にするだろうか?
 もはや人ではない。人の形をした戦だ。
 天地も己も飲み込んで顧みるところのない、燎原の火そのものだ、と。

 これでまだ己の技量を鼻にかけるとか、権威を振りかざすとか、酒色をむさぼるとか、いっそ辻斬りをたしなむとか。
 そういう態度を取っていればあるいは人がましく扱われることもあったかもしれない。
 だがそれもない。雪をたたえた山嶺のごとく人を寄せ付けぬ美貌には、笑みも涙も、怒りすら無縁のものであろうと思われた。
 そして――――行いを決する理由も、また人間離れしているのである。
 先日、流れ者の無頼が六人がかりで城下の豪商をかどわかすということがあった。
 誰にも顔を見られず一滴たりとも彼我の血を流さず、およそこの手の犯罪としては理想的といってもいい首尾で意気揚々と根城に引き返した彼らを待ち受けていたのは。
 赤樫の木刀を携えた、紅姫であった。
 六人ことごとくを打ちのめして帰ってきた彼女に、家臣たちはこぞって質問した。
 何故に賊の根城へ先回りできたのか。その問いに、紅姫はこともなげに答えた。

 そちらのほうが城から近かったからだ。

……故に紅姫の立場というのは実に厄介なものである。
 泰平の世に一国を覆してなお余りある武力を持ち、その行動は天命にも似て正しく、天運にも似て推し量ることもできない。
 嫁に出そうにも生ける武神を娶ろうという度胸のある若君などいない。
 伊吹家に世継ぎの心配が「ない」こともまた面倒な状況に拍車をかけている。極論すれば放っておいてもいいからだ。
 家の秩序を第一とする家臣達の中にはいっそ放逐するか命を召し上げてしまえばどうだと酒の肴に話すものがあるほどだが、それが実行に移されたことはない。

 かくして紅姫は他国の姫君がうらやむ――――あるいは想像したこともない自由の中にあった。
 彼女がそれをどう思っているのか、誰にもわからないことではあったけれども。

***

……哄笑はまだ続いている。
渦巻く風はまだ健在な枝を鳴らし、不意に厚くなりはじめた雲から響く遠雷の音とあいまって、この世のものとは思えない不気味な唸りを上げていた。
あたかも天地そのものが紅姫の狂奔に煽られてでもいるかのようであった。

 夏目修理は紅姫の近習である。お互いに幼少の頃より共に過ごし、寵愛を受けている、と言って差し支えない。
 故に牛鬼の討伐という大任にもただ一人で随行した。
……純粋に、紅姫の武勇に比肩するほどの技量を持ち、その内心を多少なりとも汲み取れるものが家中にいないというだけの理由であったが。
 修理は今やその肩書きだけで珍重されるようになってしまった男の忍び……くのいちの婿という意味ではない、本当の意味での忍者である。
 感情を押し殺すことには慣れていた。臓腑をくすぐられるような奇妙な感覚が脳髄に上る前に呼吸を整えてそれを打ち消す。
 聞き惚れていたかったのに、と未熟な部分が言うが、無視できる範疇だった。心配しなければならないことは二つ。
 紅姫の怪我の把握と、急変する天候への備えだ。

「姫さま―
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