人生で大切なものは、だいたい医学書から教わった

「うぅ……こっちで合ってるの、かな……」
 ずりずり、と左足を引きずりながら、イオンは真っ暗な森の中を進んでいた。
 イオンはこの森を抜けた先にある小さな村の出身だった。
 しかしその村の出身者なら、まず間違いなくこの森を通ることはない。
 何故ならこの森には、人を襲う魔物が多く住み着いているからだ。
 もちろん、イオンも始めから森を迂回するように作られた街道に沿って村を目指していたのだが、その進路を塞ぐ問題が現れてしまったのだ。
「っ!?」
 背後から聞こえたガサッ、という草を踏みしめる音にイオンは身を縮みこませた。
 街道にいたのは、10人ほどの盗賊たちだった。
 加えて不幸なの事に、イオンは村の人たちに必要な薬を買った帰り道だったのだ。
 それは盗賊たちが手に入れても使い道に困るものだろうが、どんなものであれど薬は薬。売ればそれなりの金額になる。
 ニヤリと不気味な笑いを浮かべ、一歩一歩と近づいてくる彼らを前に、イオンは迷いなく森へと飛び込んだ。
 彼らに勝てる力はない。見逃してもらえるだけのお金もない。
 とするならば、この薬を守るためには逃げるほかにはなかったのだ。
 しかし、普段はボロボロの医学書と師匠の元で治療の手伝いをする毎日を送るイオンに対し、彼らはそんなイオンのような獲物に飢えながら走り回っている盗賊たちだ。
 森に飛び込んだ瞬間、イオンの目の前に現れた盗賊の仲間がイオンの左足に浅い一撃を加えたのだ。
 幸いだったのが、傷が浅かったために斬られてからも数分は走り続けられたことと、日が暮れていたために隠れやすかったということだろう。
 しかし、今ではもう左足の感覚がほとんどなく、膝から先がただの棒のようにかイオンには感じられず、出血の為に頭も重くなってきていた。
 それでも、イオンにはここで立ち止まっている時間はなかった。
 胸に抱えている薬も、村人たちが数少ないお金を出し合って買ったものだ。
 なんとしても届けなければいけない。
 イオンは歯を食いしばり、再び右足に力をこめようとしたそのときだった。
「ぐぅっ……!?」
 前かがみ気味になっていたために沈んでいたイオンの視界が、グググッと上を向く。
 それはイオンが意図した行動ではない。
「ったく、手間かけさせやがって」
 図太く、しゃがれた声がイオンの背後から聞こえ、次の瞬間それとは対照的に耳をつんざくような甲高い音が森の中に響き渡った。
 イオンの華奢な首に大木の枝のような腕が滑り込み、背の低いイオンの身体は軽々と宙に持ち上げられていた。
 水の中を泳ぐように両足をバタバタと動かしてはみるものの、しっかりと入り込んだその腕は一向に解ける気配がない。
「無駄だってんだよ、オラッ」
 音が、消えた。
 まるで果物から果汁を搾り出すように、イオンの首がギュッと締め付けられる。思わず目が飛び出しそうなほどの強さだ。
 必死に酸素を取り込もうとイオンは口を動かすが、ヒューヒューという扉の間から入り込む風のような音が口の中を行ったり来たりするだけ。
 もうだめだ、そう思ったとき、ふと首に掛けられていた荷重が消え、いきなり飛び込んできた酸素にイオンは思わずむせた。
「……野郎、したら身代金、とれねぇだろうが」
 酸素が肺に飛び込み始めると、再びイオンの元に音が戻りはじめた。
 気づけばイオンの回りに盗賊たちは全員集合していた。どうやらあの甲高い音は、居場所を知らせる笛か何かの音色だったようだ。「だけどよぉ、あんなちっこい村だぜ? こんなガキ一人のために金なんか払うのかよ」
「分かっちゃいねぇな。人の死体なんてめったに見てない奴らだ。こいつの指の1本か2本送ってやれば、気も変わるだろ」
 下品な笑いに混じって聞こえるその恐ろしい話は、当然イオンの耳にも入っていた。
「おいおい……そんなに怖がるなよ。たかが、10本もある指の1本を切るだけだ。死にはしねぇよ」
 一人の盗賊がイオンの顔を覗き込む。薄汚れた笑みが月夜に照らされ、その右手には怪しく光る刃物が見えた。
 羽交い絞めにされているイオンにできる抵抗などあってないようなもので、あっという間に薬は奪われ、イオンの左手は木の幹に沿って立てられていた。
「おう、もう少し指の間を開かねぇと、間違えて他の指も切っちまうぞ」
 なんともありがたみのないご好意だったが、イオン自身は恐怖に脅えてそれどころではなかった。
 イオンの心の準備など待ってくれるはずもなく、月に重なるように刃物が振り上げられる。
 またしても音が消えたが、心臓が張り裂けそうなほどに悲鳴を上げているのが分かった。
「か、は……」
 しかしそんな無音空間だったからだろうか?
 決して大きくはないが、今まで聴いたことのないようなおかしな声が森の中に小さく響いたのだ。
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