盗み見た記憶

ぬちゃぬちゃ。



海辺の洞窟に粘液が擦れる不快な音が静かに響く。
そこに居るのは騎士の格好をした男と、妖艶で深い闇のような美女。
美女は力なく眠る騎士の頭をふとももに載せ、まるで子供をあやすように騎士の頭を撫でている。
その光景は力尽きた騎士を美女が慰める騎士道物語の一幕にすら見えたかもしれない。
力尽き生命が果てる時に美しき女の元でその人生を肯定される。それは戦士の憧れである。
その女がヴァルキリーであれば、戦乙女に天界へと導かれる神聖な光景に見えただろう。
たが、神聖さとは別種の堕ちた闇のような、静かで妖しく異質な空気しかこの空間にはない。
なぜならば、女はマインドフレイアという魔物である。
そのシンプル極まりない事実が、眠る騎士にとってその後を絶望的なものに変えている。



くちゃりくちゃり。



マインドフレイアの情報は少ないが、極めて危険な魔物の一種として挙げられている。
その魔物が得意とすることは、精神操作。
心を読み、嘘を信じ込ませ、人を意のままに操る恐るべき魔物なのである。
つまりこの光景は、男の頭を直接操る邪悪そのものの光景なのだ。神聖さなど欠片もない。
普通ならば。



ぬちゅぬちゅ。



マインドフレイアは独自の社会を築いており、その精神性は異質なものである。
自分達の欲望以外の事で動くものはないとされており、捕まったら最後。心を作り変えさせられる。
眠る騎士はその身体を既に彼女に預けており、その耳には触手のようなものが入り込んでいる。
もはやその心は彼女の手によって作り替えられていることだろう。
この状況を冷静に観察出来る者がいれば、誰だってそう判断する。




ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。









女は静かに涙をこぼしていた。










ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。













自らの手で、守るべき民を虐殺した騎士の話をしよう。













ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。



















騎士は民を守るために厳しい訓練を積み、高い徳により模範的な騎士の一人とされた。
王への忠誠心は高く、愛国心の塊であり、敵にすら正しく慈悲を与える騎士の中の騎士。


そのような騎士が、村の一つを焼き討ちし、住民の全てを皆殺しにしたのだ。
凶行ではない。狂気に駆られてもいない。打つ手はなく、迅速なその行動は誉れですらあった。





極めて高い死亡率と感染性を有する伝染病に村は侵されていた。





高等な奇跡でなければ対処が不可能な伝染病は、一度広がってしまえば確実に国を滅ぼす。
そのため、見つかった時点で疑わしきものをすべて焼ききるというのが正しい対処なのだ。
発見した騎士は、高等な魔術を修めており、適切な対処法も、為す術がないことも知っていた。


早期であれば方法はあったかもしれない。だが。発見した時は手遅れであった。

魔術により、連絡を行い、状況は瞬く間に王まで伝わり、勅命が下る。

騎士は、詠唱を始め、魔力の尽きる限りまで、次々に魔術を繰り出した。



男も、女も、若者も、大人も、子供も、老人も。
若い新婚の夫婦も、孫の誕生を楽しみにしていた老夫婦も、将来を誓い合っていた子供達も。
小さい酒場の看板娘も。猟師の兄ちゃんも。雑貨屋のばあちゃんも。鍛冶屋のおっちゃんも。


自分の妹も。







燃やした。









故郷だった。












ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。






女は、騎士の痛みを知ってしまった。
最初は洞窟にぽつんと佇む単なる獲物のように思っていた。
まるで抵抗しない彼を意地悪な気持ちで遊んであげようとすら思っていたのだ。


辛い。


記憶が、感情が触手からダイレクトに伝わってしまった。
まるで自分の事のように思えてしまっているのだ。


こんな辛いこと。覚えたままにさせておく理由はない。


忘れさせてあげよう。忘れさせてあげなければ。忘れてちゃっていい。忘れて。






ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。







強く、拒絶された。







ぬちゃぬちゃ。

くちゃりくちゃり。

ぬちゅぬちゅ。







何度繰り返しても、忘れさせることが出来ない。
トラウマのようにこびり付いているわけではない。
本人の意思でその記憶を忘れることを拒まれているのだ。
マインドフレイアの精神操作能力ですら拒絶しきる強い意思で。

なんで、こんな辛い事を。忘れようとしないんだろう。


理解が出来ない。







ぬちゃ・・・







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