家隷

 その建物に入った時に真っ先に浮かんだのは後悔だった。壁には薄く血の染みがついており、その空間を包む空気はどこか血なまぐさい。真っ当な人間ならばまず足を踏み入れないであろう場所にきてしまった、ということをその場の雰囲気と鉄鎖の音は雄弁に教えてくれた。
 細く長い通路の脇には小さな小窓がついていて、牢の中の様子を逐一確認出来るようになっている。自分は元来、好奇心が強い性質だったと自覚しているが、それらの中を覗いてみる気には残念ながらなれなかった。その小窓の中からは薄くうめき声が聞こえてくるため、耳さえもふさいでしまいたい気分になった。
 前を歩く男が自慢げに牢の中の“商品”を振り返る。
「どうだい、大したもんだろ」
「本当だよ、まったく」
 鎖に繋がれた奴隷を見せびらかす友人に私は皮肉っぽく返した。それは正しく伝わったのだろう、彼はにやりと笑ってまた歩きはじめる。私は溜息をついてそれに続いた。
 大したもの、というのは正しい評価だと自分でも思う。奴隷商という商売は禁止こそされてはいないが大っぴらにやる商売でもない。それがこの建物の大きさはなんだ。商品用の倉庫といってはいたが、自分が経営している商館と同じくらいのサイズはあるではないか。それ程の大きさの建物がまるまる裏稼業に繋がっているとは。
 目の前を歩く旧友の背中をまじまじと見る。同じ商人を師と仰ぎ、見習いの頃から修行してきた。確かに、そのころから荒っぽい稼ぎ方をしていたやつだったし、博打じみた商売で儲けていたような奴だったが、一体いつの間にこれほどの金と力を手に入れたのだろうか。
「不思議そうな顔してんな?」
 そんな疑問は見え透いていたのだろう。彼は歩きながらオールバックにした髪を撫でつけ、にやにやと笑いながら口を開いた。
「まあ、人道的に問題がある商売なのは間違いねえやな。人様の命を売りつけるってんだから教団に目をつけられてもおかしくは無い。ただ、こいつにはちょっとばかり手品のタネがある」
 芝居がかった語り口でまどろっこしく話すのは昔からのこいつの悪い癖だ。それにげんなりとしながらも私は続きを促した。
「その教団のお目こぼしをもらってるんだよなあ」
「そんな馬鹿な」
「そこの牢、覗いてみな?」
 見てのお楽しみ、とばかりに肩をすくめる旧友に促されて渋々と近くの小窓に近づき、覗き見る。
「おい、これは――」
 思わず声が漏れる。それを見て友人はにぃ、と口角を釣り上げた。
 狭い窓からは殺風景な牢の中の様子が良く見える。打ちっぱなしの壁には鉄輪が突き刺さっており、そこから延びる鎖は一人の女をつるし上げていた。
 羽の生えた人ならざる女を。
「魔物じゃないか!」
「そーいうこった。人類の敵である魔物に人権はねえ。とっ捕まえて殺すしてふりここに連れ込んで、どこぞの色ボケ男に売りつける」
「そんなことして大丈夫なのか」
 魔物がそんなに大人しい種ばかりであるとは到底思えない。その気になればあんな鉄の鎖など紙細工のように引きちぎって逃げだすこともできるのではないだろうか。
 しかし、ちっちっと舌を鳴らしながら指を左右に振った。
「いんや、あの女どもも好きでやってんのさ」
「はあ?」
 理解が出来ない。好んで奴隷に身を落とすような奴が一体どこにいるというのだ。
「あいつらも自分を買ってくれる男をどこかで待ち望んでいやがるのさ。自分が仕えるにふさわしい主人や、自分を屈服させてくれるような旦那をな」
 俺たちには理解できねえ感性だろうが。と言い捨てて彼はまた歩き始めた。
 私もそれについていこうとしたが、牢から目を離す瞬間中にいた魔物に視線を向けてしまった。
 彼女はじっと私を見ていた。私と目が合うと、彼女はぞっとするほど美しい笑みを浮かべて私に会釈した。その一瞬の仕草に私は少しだけどぎまぎすると同時に恐ろしさを覚える。
 服も身にまとっている、ただ微笑みかけられただけ。それなのに何故か異常なほどに艶めかしい。じっと彼女の瞳を見つめると、その奥に情欲の炎が滾っていることに私は気が付いた。
 ――男を待ち望んでいやがるのさ。先ほどの友人の言葉が蘇る。なるほど、つまりこれは彼女達にとっての新たな捕食行動なのだ。あえて奴隷に身を落とし、弱った姿を見せ屈服させようと男を誘い、精を喰らうための。
 壁に繋がれた女に私は食虫植物を幻視した。
 足早に牢の前から去り、友人の背中に追いつく。私の無様を見たのだろう、手でも繋ぐか? とからかってきたので私は思い切り向う脛を蹴ってやった。
「痛って、冗談だろうが。で、欲しいのはハウスキーパーだったか?」
「ああ。間違っても性奴隷なんていらないからな」
「まあ、お前は昔からそういうタイプだったからなあ」
 念のために釘を刺しておくと、彼は肩をすくめた。
 私も
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