山中の旋律

 世界の人々の多くは市壁の外を歩いたことは無い。
 その理由は簡単で、町の外には危険が満ちているからだ。野党、魔物、災害。あらゆる危険から身を守ってくれるのは自分の力だけであり、そんな危険を冒して彼らは町を飛び出すようなことは無い。
 言ってしまえば、彼らの生活は市壁の中で完結している。
 しかし、それでも人々はつながりというものを求める。よその町ではどうなっているのか知りたい。知らない世界の話を聞きたい。知らないものを知りたい。
 そして、それらを知ることが出来るのは旅人の特権だ。
 そして、特権というものは実に金になる。
 俺は馬車を引きながら、ほくほくとした顔で金貨の詰まった袋を弄んでいた。
 今日の商談相手は山岳地帯のとある村長だ。峻険な山に囲まれたこの村をわざわざ訪れる人間は少なく、物資の入りも少ないためここでの商売は非常に金になる。
 薬草に、衣服や装飾品。あちこちではもはや流行遅れの商品もここでは流行の最先端に早変わりだ。割高で売りつけても感謝こそされ、ぼったくりだと責められることは無い。商売ついでに、旅の途中で起こった出来事や他の町の出来事を語ってやれば、そんなことすら飯の種になる。
 しかし、こんなぼろい商売は他の商人も簡単に気がつくはず。それでもこの村に商売敵が現れないのは、ここまでの道中が危険に満ちているからだ。特に魔物の出現率は高い。
 それでも俺がこの村に来るのは俺が命知らずだから……というわけではない。
「行商人殿。今回も来ていただき、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ良い取引をさせていただきました」
 村の入口で門番をしていた女性が村を発とうとする俺に向けて声をかけてきた。女性にしては、少し筋肉質でどこか剣呑な印象を受ける。もしかしたら魔物とのハーフなのかもしれなかった。
 すかさず、帽子を脱いで彼女に顔を向けて一礼する。そして、自慢の営業スマイルを浮かべるが、それを向けられた女性は顔を引きつらせるばかりだった。
 そう、俺が魔物を気にせずにここへ出入りできる理由。それは俺の容姿のあまりの醜さにある。
 教団の教えには魔物は人を食う邪悪な存在である、とされているがそんなものを馬鹿正直に信じているのは平野部にある教団都市の住民であり、行商人や傭兵のような旅暮らしの人間の間では彼らが生殖のために人を襲うことは、公然の秘密であった。
 それならば、繁殖の相手に見た目が良いオスを選ぶのは当然のことだ。はっきりとした確証こそないが、こうして旅をしてきて一度も襲われたことが無いのはつまり、そういうことだろう。
「道中お気をつけて」
「ええ。貴方にも神の祝福がありますように」
 決まり切った社交辞令を交わして馬に軽く鞭を入れて歩かせる。俺が去っていくのに、少しだけ門番が表情を和らげるのを目の端で捉えて、少しだけ溜息をついた。
(まあ、金だけあればそれでいいんだが)
 女など、欲しければ金で買えばいい。奴隷でも商売女でもそれなりに金を出せば買えないものは無いのだ。値段がついていて金で買えないのは金だけだ、というのは商人の間では定番のジョークである。
 それでも女を買わないのは、純粋に旅の邪魔になるからである。体力の無い女はパンや水、にんにくとわずかな干し肉だけでこの山道を踏破することはできない。そして、それが出来ないようならば金は稼げない。
「それこそ魔物でもいいかもしれんな」
 一人で嘯いて、俺は肩を揺らした。一人旅になれてしまうとこうして独り言を不意に発してしまう。行商人の職業病の一つといった所だろうか。
 
 それからどれくらいの時間が経っただろうか。不意に何かが太陽を遮った。それと同時に大きな羽音がして、かすかな風が馬車の幌を揺らす。
「そこの旦那、馬車の旦那、ちょっといいです?」
「ああ?」
 始めは大きな鳥か何かだろうと気にも留めなかったが、どうやらその影は自分に声をかけているらしい。ずっと自分の上空を旋回していたようだ。声をかけられてようやく立ち上がり、幌をずらして空を見上げる。
「すいません、ちょっとご一緒してもいいですかぁ?」
「ええ、どうぞ」
 何がご一緒しようが、どうでもいいと声をかけると、それじゃあ失礼。と軽い声と共にふわりと一人の女性が舞い降りてきた。
 それは黄金の羽を持つ美しい女性だった。煽情的な服装では隠し切れないほど肉付きの良い体と、美しい顔。魔物だとすぐに分かった。それほどまでに彼女の美しさは人間離れしている。
 何より特徴的なのはその体から立ち上る香りだ。甘ったるいようでいて、しかし嫌味な香りではない。ほのかな爽やかさを感じさせるそれは俺の鼻孔を伝って直接俺の脳を揺さぶるような力を持っていた。
「どうも、私めは旅から旅への渡り鳥。道中、素敵な御仁を見つけたもので
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