虎穴に入らずんば虎子を得ず

 霧の大陸、その山中深くに拳鬼と恐れられしもの、ありけり。
 世界の格闘家の間でその噂はまことしやかに流れている。しかし、その拳鬼とやらの実在を確認した奴はいないそうだ。人間なのか、それとも魔物なのかもはっきりしないそうだ。俺個人としては、鬼と呼ばれるくらいなんだから魔物なんだろうな、とあたりをつけている。
 そして、俺はその拳鬼という奴に勝つつもりではるばる霧の大陸まで渡ってきたのだ。
 相手が魔物であろうと、勝つ自身はある。現にこの山に来るまでに何度か魔物をこの手で打ち倒してきた。魔物といえども命は惜しいのか、ある程度傷を負わせると逃げていく。
 勿論彼女らに止めを刺すことはしない。どういった目的で人間を襲うのかは俺の預かり知らぬところだが、相手は女でそれにきちんと一対一で戦った戦士でもある。その戦いの結果を汚すような真似はしたくはなかった。
「……む」
 木々を掻き分けるように獣道を進んでいいたところ、視界の端に気になるものがうつったので足を止める。
 目の前の木に大型の獣が爪で傷を付けた跡があった。虎か、あるいはクマか。それくらいの大きさの爪痕だ。
 しかし気になるのは、それは一筋だけだということ。動物が爪を研いだのならばもっとひどく傷ついているはずなのに、まるで目印か何かのように付けられている。
 そして山頂まで続いているであろう獣道が、うっすらと、注意しなければ気がつかないほどに二股に分かれていた。
「これは、ひょっとするか?」
 宝の地図に現実との整合性を見つけたような、そんな気分だ。慎重に草木を掻き分けて獣道から外れないように山中を進む。幾度も蔦に引っかかったり、蜘蛛の巣を避けて通ったりしながら進むことしばらく。不意に視界がひらけた。
「こいつは驚いたな」
 森を抜けると、そこには豊かな草原があった。恐らく山の中腹あたりに位置するのだろう、傾斜は殆どと言っていいほど無く、眼下に大陸を一望できる。そして、草原のすぐ脇を渓流が滝となって落ちてきていて、小さな湖を作っていた。
 山中で暮らすとするならばこれ以上ないほどに望ましい環境だ。そして、そこから導き出される推論を裏付けるように渓流のほど近い場所に質素な庵があった。
「たのもう!」
「何者だ!」
 すっと深く息を吸い込み、大喝。すると庵の中から答える声があった。
 そこから出てきたのは女であった。栗色の長い髪を腰まで下ろした女。そしてその手足は獣毛に覆われており、油断なくこちらを睨めつける目は金色に輝いている。
 縦に溝を掘ったかのような黒目。虎の瞳だった。
「貴女が拳鬼か?」
「拳鬼? ふむ、仲間内でそう名乗ったこともあったが」
 爪がぎらつく掌で形の良い顎を撫でて、昔を思い出すように人虎が言う。噂は本当のようだった。
 ならばなすべきことはただ一つ。
「お手合せを願いたい!」
 道着の襟を正し、強く帯を結んで腰を落とす。俺が構えたのを見て、女は眉を顰めた。
「戦うのか? お前死んでも知らんぞ」
「簡単に死ぬほどやわな体ではない。心配は無用だ」
 俺の答弁にふむ、と何やら彼女は納得したようで腕を組んだ。
「まあ、この山を無傷で登ってきているから心配はいらんか」
 手合わせなど久しぶりだよ、とどこか嬉しそうに独りごちて彼女が組んだ腕を解く。そして大口を開けた。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 とても女性の口から発せられたとは思えないほどの大音声。虎の咆哮だった。人間としての本能か、獣の殺気を受けて身がすくみそうになる。それを何とか気迫で誤魔化した。
 これはただの戦う前の一声に過ぎない。戦う前から気迫で負けていては勝てるはずもないのだ。
「せあああああああああああああっ!」
 負けじと大喝。それと共に人虎に向けて一歩を踏み込む。俺の動きに合わせて彼女も動き出した。間合いが一瞬で切られて、即座に一足一刀まで詰められる。
 先手を取る。彼女が踏み込んだ右足を踏み潰すような勢いでさらに踏み込み、左腕を彼女の肩上にかざして彼女の拳を受け止める。そのまま近距離で腰だめに構えた掌底を顎元に向けて叩きつけた。
「シャアッ!」
 顎を砕く心算で放った一撃を、人虎が横合いから俺の手首を押さえつける事で止める。そのまま俺の右手首をひねり上げ、関節技を極めようとするのを、敢えてその流れに逆らわず体ごと回る。その勢いを利用して相手の横面を襲う肘鉄。
「――シッ!」
 その予兆を感じ取ったのか、彼女は極めかけた俺の右手首を放棄。俺の肘鉄が来るより先に腰から落ちるような勢いで地に伏せ、その体制から体を回して足払いを放った。
 回避と攻撃を同時に為すそのセンスに内心舌を巻く。肘鉄が空振り、体制を崩したものの、踏み込んだ軸足に再度力を込め頭から地面に飛ぶ。人虎の体を飛び越すよう
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