お堂の扉を開くと、頼りない蝋燭の明かりの中で綾乃は目を閉じ正座をして、俺を待っていた。
その横顔が、本当に綺麗で、三十年以上すぎた今でもはっきり思い出せる。
ゆっくりと、綾乃は目を開き、じっと俺を見据えた。
「………負けたんだな。」
腹の傷を見て、綾乃は呟く。
綾乃はわかっていたんだと思う。
俺が負けたのは、龍雅に一騎討ちで負けたということだけじゃなく、俺の信じたものを、この僅かな傷で、根っこから完全に叩き折られてしまったということを理解したような微笑を彼女は浮かべたのだから…。
「…お帰り、カズサ。お前は随分遠回りしたけど、やっとお前に帰ってきた。私が大好きだったガキ大将、沢木の紅若にやっと戻ったね。」
「……綾乃。」
すっと無駄のない動作で綾乃が立ち上がると、俺を出迎えるように歩み寄った。
いつもの武者姿ではない。
女の装束を小奇麗に纏い、旅支度をした綾乃。
俺の目の前まで来ると、突っ立ったままの俺を見上げ、腹の傷を擦った。
「禄衛門も成長したものだね。お前に一太刀浴びせれるようになるなんて…。カズサ、まさか私を置いていくなんて言わないよな?私は、お前の妻だ。夫婦の契りも交わした。これからも、お前の戦を、お前の傍で見守っていっても良いよな?」
綾乃の肩に手を置く。
「綾乃……。」
俺はお前がいてくれて良かった。
まだ、お前さえいてくれるなら…。
そう口に出そうとした瞬間、俺の脳裏に浮かぶあの滅びの村。
あれは俺のせいで滅んだ村。
死者が俺を見詰め、怨念がズシリと俺の背中に取り付く。
無論、錯覚だ。
そんな気がしただけだ。
だというのに、綾乃に一緒に逃げよう、その一言を告げられない。
「……カズサ?」
綾乃が俺を見上げる。
俺は、綾乃を守れるのか。
俺に、自分一人、綾乃を連れてのうのうと生き残っても良い資格があるのだろうか。
仲間を犠牲にし、龍雅ですら躊躇なく斬り捨てようとした俺が、綾乃をこれから待つ逃亡生活の中で幸せに出来るのだろうか。
間違いなく、俺は争いを呼び込むだろう。
俺の意志に関係なく、ではない。
間違いなく俺の意志でだ。
俺は、死神だ。
宗近の言う通り、俺は死を撒き散らした祟り神だ。
「…綾乃。」
俺は言わなければいけない。
一緒に逃げよう。
俺と一緒に生きてくれ。
綾乃のためにも、俺を生かそうとしてくれた龍雅やみんなのためにも。
「…カズサ。」
綾乃も待っている。
その一言があれば、彼女はどこまでも付いて来てくれるだろう。
彼女が隣にいてくれるなら、逃亡生活も絶望ではない。
肩に置いた手の平が汗ばむ。
「…綾乃、お前はここに、残れ。」
「……!?」
綾乃が息を飲む。
俺は彼女を直視出来ず、奥歯を噛み締めていた。
「ど、どうして…。どうしてなんだ…!答えろ、カズサ!!」
綾乃が狼牙の襟を力強く揺さぶる。
悲痛な表情を浮かべたまま狼牙は何も答えない。
答えられないのだ。
彼は考えてしまった。
追手を防ぎ切れるか。
追手から綾乃を守っていけるのか。
そして綾乃をもし失ってしまったら自分は立ち上がれるのか、と。
やがて悲痛な表情のまま、彼は泣きそうな声で答え始めた。
「怖いんだ。お前を失うのが…、お前が傷付くかもしれないと思うと…、怖いんだ…。」
「カズサ!?」
綾乃も見たことがない狼牙の姿。
初めて見る年相応の彼の姿に綾乃は困惑した。
すでに狼牙の緊張の糸は切れていた。
それは綾乃や龍雅、仲間のために見せていた猛将、沢木上総乃丞狼牙という仮面が崩れ、弱く、繊細で、あまりにも若すぎる、素顔の十代の少年がそこにいた。
「俺は誰も守れない…。村瀬も佐久間も篠崎も、みんな俺を…、俺なんかのために死んでしまった。禄衛門にしてもそうだ。あいつは俺を助けようとしたのに、俺はあいつを一歩間違えれば殺してしまうところだった…!」
「それは、カズサの心が昂っていたから…!」
「違う、俺は正気だ。例え、お前の言う通りそうだったとしても、いつ、その刃が、お前に向かないとは限らない!一度向けた刃は、友であろうと何であろうと、何度でも向けられる…!だから、お前はここに残るんだ。禄衛門がお前のことを助けてくれる。お前はここに残って、ここで生きてくれ…。」
「嫌だ!カズサ、お前は言ったじゃないか!!お前の傍で寄り添っていても良いと。私を失いたくないと!それはすべて嘘だったのか!!一時の快楽が言わせた嘘だったのか!!!」
綾乃の剣幕にも狼牙は変わらなかった。
力なく涙を流し、ただ綾乃に揺さぶられるまま。
それはまるで抜け殻。
死神、祟り神を自覚してしまった少年はただ幽鬼の如く、ゆらりと希薄にただそこに存在する。
「お願いだ…、逃げるのなら…。逃げるのなら…、私も一緒に連れてって…。」
狼牙の胸に顔を埋めて、綾乃は懇願する。
熱い涙が狼牙の着物
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