第百十二話・神楽舞『うたかた』

 誰もいないのに幕が上がったままの舞台。
 灯かりの消えた舞台。
 だが客席には何かがいる。
 もぞもぞと蠢くような影法師が誰もいないはずの舞台の上を見詰めているのだ。顔のない影法師たちが何かが舞台に上がるのを今か今かと待ち続けている。声なき声で役者を呼んでいる。影法師たちが何かを叫ぶたびに暗闇の密度がどんどん重たく、ぬるりとしたものへと変わっていく。

 そして、何かが舞台の上に現れた。

 足音もなく、何の前触れもなく、それは現れた。
 三つ首の牛の首の皮を頭から被り、身体をすっぽりと覆い尽くしたローブを纏ったそれが現れると、暗闇の密度がまるで嘘のように消え去った。あれだけ騒いでいた影法師たちも鳴りを潜め各々が『観客』としての役目を全うするかのように静まり返った。
「さあ、諸君」
 それは透き通るような優しい声で影法師たちに語りかけた。
 牛の皮の向こうで赤い唇が微笑んでいる。
「ここから終わる。そして新たな時が始まる」
 空気が無音のまま響めいた。
 闇の向こう側にいる何かは待ち侘びていたかのような気配さえ見せている。
「神と私の時代が過去に押し流され、種族の垣根を破壊する人間の手によって新たな時代の幕が開く。悪の定義が変わる。正義の定義が変わる。さあ、見守ろうじゃないか。我々の子らの残す軌跡を…」








「あのう………もし……?」

 帝都を脱出し、帝国を南下する民の群れ。
 新たに定められた都は帝国南方の大都市オルテ。元々は帝国と敵対する親魔物国家に対する南方の備えとして発展した要塞都市であったが、その敵対してきた親魔物国家も半世紀以上前に世継ぎ問題で滅んでしまったために要塞としての機能はそのままに、帝国における旧帝都コクトゥに並ぶもっとも発展した都市である。
 紅帝・紅龍雅が遷都の令を発しオルテを選んだのも、改めて都を造る必要もなく、コクトゥの民すべて移したとしても衣食住すべてを賄えるだけでなく外敵に備えることも出来る都市だったからであったが、ここで紅龍雅も予想していない事態が起きていた。帝都から脱出した民衆はおよそ19万人。それをいくつかの組に分けて出発させ、先帝ノエル・ルオゥムや皇后アルフォンスと共に脱出した組はおよそ7万人の群れとなって新帝都オルテへと向かっているはずだった。
 しかし、そこには明らかに7万人を遙かに超える人の群れ。
 軽く見積もっても10万や20万ではすまない。50万人と言っても差し支えないほどまでに膨れ上がっているのである。後の世に記された史記によれば、このどこかからやってきた人の群れは帝国全土から流れてきた避難民であることがわかっている。戦う力を持っていなかった彼らは皆揃ってヴァルハリア・旧フウム王国連合軍による支配を良しとせず抵抗の意思表明として南方の新帝都を目指して歩き続いてきたのである。この避難民たちがノエルら帝都の民たちと出会ったのはまったくの偶然だった。
 そして後に彼らは言った。
 何の苦難もなく合流出来たのはまるで神に導かれたかのようであった、と。

「あのう……もし、兵隊さん?」

 かつて兵士はこの光景とよく似たものを見たことがあった。
 遥か南の大陸を旅していた時、圧倒的な黒という色で大地を埋め尽くすような巨大な牛の群れを思い出していた。人の手にはどうすることも出来ない命の濁流と例えれば良いのだろうか。そういった感情をこの膨れ上がった民たちに茫然と重ねていた。
「あのぅ…」
「………えっ、あ、これは失礼を。何かご用で」
 自分を呼ぶ困ったような声に兵士はようやく我に帰った。
「すみません、少し考え事を……」
「ああ、それはごめんなさい。でも、良かったぁ」
「……?」
「私、無視されていたんじゃないんですね♪」
 兵士に訊ね掛けた女はホッと胸を撫で下ろしていた。その様子があまりにコミカルでおかしかったので思わず兵士も笑ってしまった。釣られて女も一緒に笑っている。
 無視されていると不安になるなんておかしい。
 そもそも、本来無視する側とされる側が正反対なのに。
 女は修道女、兵士はリザードマンだった。
「それで、ご用は何でしょうか?」
 お嬢さん、と兵士は修道女を呼んだ。
 片方にヒビの入った丸い眼鏡。一目で避難民ではないとわかるほどの健康的に日に焼けた肌。それに屈託のない笑顔と小柄な彼女の背丈に合わないような背中に背負った大荷物も効率良くまとめられている。よく見れば履いているブーツもよく馴染んでいるようで、兵士がよく見掛けた聖地巡礼の旅をしていた者たちと同じように非常に旅慣れしているという印象を与えた。
「あのですね、この人々はどこへ向かっているのでしょうか。実はですね……私、道に迷ってしまって、たまたまこの人々の群れを見掛けて、これ幸いと慌てて駆けつけてき
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