始まりの“LOVELESS”

 まだ薄暗い部屋の中、彼女はぼんやりとした頭でベッドの上で気だるそうに目を覚ました。
 カーテンの向こうからはまだ蒼い月明かりが部屋を照らしている。ベッドの棚に置いたクリスタルの置き時計を、起き抜けで身体に妙に力の入らないまま手に取って見るとまだ深夜四時にもなってはいなかった。眠り始めてからまだ二時間も経ってはいない。

嫌な夢を見たような気がする

 手に取ったクリスタルの置き時計を棚に戻すと、彼女はそっと自分の頬に手を当ててみた。
 指先が濡れている。
 何となく彼女はそんな予感があったのだ。どんな夢の内容だったのかは思い出せない。それでもどんな夢だったのかはすぐに予想が付いていた。それは今夜に限ったことではない。何度も何度も、彼女は思い返しているのだ。

それを何千、何万という夜に繰り返している

 彼女は人間ではない。
 千年という月日を生きた狐、五つ尾の“稲荷”である。
 ただあまりに人間の近くで生きてきたせいなのか、他の同属とは何かが決定的に違うことを自覚している“はぐれ者”の稲荷であった。はぐれ者だからこそ出来ることもあったのだが、彼女は他の妖怪・魔物娘たちとは異なり、人間同様に金銭に対してそれなりの興味があり、また人間同様に労働によって日々の糧を得る生活を好んでいた。
 それも彼女の見る夢に関係することに起因する。
「……………………情けない」
 そう吐き捨てるように、彼女は喉の奥で低く呟いた。
 まだ眠り足りない眼で部屋を見回してみて、ここが夢の続きではないことを確認すると彼女は宙にため息を吐く。そして『我ながら無駄に広い部屋を購入したものだ』と彼女は少し自嘲気味に笑った。
 彼女の住処は駅前のマンションの最上階。
 その最上階のフロアそのものが彼女の家であり、マンションと呼ぶにはあまりに規模が違いすぎるそれは、所謂セレブ御用達の“億ション”と呼ばれる物件である。別に小さな物件でも構わなかったのだが、この広い部屋を手に入れたのにはそれなりの理由があり、何よりその方が彼女にとって都合が良かったのだった。
 都会の真ん中に五つ尾の稲荷がいるというだけで十分目立つ。
 だから彼女は基本的に家の外では常に人間に化けて暮らしている。そのためそれが発覚しないように隣人トラブルの類は特に御法度なのであり、また彼女の家の中も質素な家具や調度品しかないとは云え、価値のわかる者が見れば重要文化財級の彼女愛用の品が多数あるために、きちんとしたセキュリティは欠かせない。
 以前は稲荷らしく自ら得意とする符術で呪術結界を張っていたのだが、それよりも若干信用は劣るものの、人類が積み重ねてきた科学技術の方が何倍も手間が掛からないことを悟って、今現在ではすっかり符術による結界の類はたまにしかやらなくなっていた。
 ベッドから身体を起こすと、枕元のランプの明かりを点けた。
 柔らかな光がぼんやりと薄暗い室内を照らす。

どうも 眠れない

 彼女はベッドの上で片膝を抱くようにして俯く。
 不意に不眠から来る鈍い頭痛が襲い、彼女は憎々しげに頭を抱えていた。
 ずくん、ずくん、と何か嫌なものが頭の中の血管を無理矢理流れていこうとしているかのような感覚に彼女は奥歯を噛み締めた。何か悪い病気だろうか、と一瞬考えた彼女だったがすぐにそれを頭で否定した。
 彼女は千年以上も長生きした稲荷である。
 これまでも何度か体調を崩したりしたことはあったが、この頭痛だけはそう云った病気ではないという自信があった。何故ならこの頭痛は夢見が悪い時に限って襲ってくるのである。彼女自身は夢の内容などこれっぽっちも覚えてはいないのだが、思い出そうとすることを拒否している彼女の心が知っている。

夢は記憶を基にして作り出されている。
その記憶を彼女は受け入れ切れていないのである。

「ほんと…………無様……」
 頭痛の痛みを愚痴るように吐き捨てると、彼女は嫌な夢と鈍い頭痛ですっかり汗ばんでしまった空色のシルクのパジャマも下着も、何もかも投げ捨てるかのように脱ぐと、一糸纏わぬ裸のままで箪笥の引き出しから、寝巻き用の木綿の浴衣とお気に入りの緑色のスポーツタオルを取り出した。
本当は一度熱いシャワーでも浴びて汗を流そうかと考えていたのだが、今の彼女にはそれが面倒に思えていた。汗をよく吸い取る柔らかいスポーツタオルで顔や首、胸の谷間や腋などを丁寧に拭いていく。ふと朝の洗濯物が面倒だ、という思いが頭を掠めたが最早後の祭り。
 しかし汗を拭くだけでも大分違うもの。
 裸でいたことで冷たい空気に肌が触れたのが幸いしたのか、汗を拭いている内にサッパリ出来た彼女は木綿の浴衣に袖を通した。木綿特有の肌触りと夜の冷たい空気に晒された布の感触が心地良く、気付けば夢見の悪さに害されていた気分も、何かが
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