宵闇夢怪譚【限界破裂】

白い世界です

目の前に見えているのは真っ白な光の世界

影のない世界。
視界すべてが真っ白に染まるほど、目が眩むような光に包まれた世界。
でも影のない世界は距離感が限りなく零のように稀薄で、まるで平面のように奥行きというものが感じられず、すべての輪郭があやふやでぼんやりしていた。
僕の存在も稀薄で、何もかもが消え入りそうで不安で不安で仕方なかった。
そこには僕以外に動くものはいない。
そこには僕の発する音しか聞こえない。

理想的な静寂

怖い

誰でも良い
僕と出会ってくれ。
誰でも良いから音を聞かせてくれ。
何でも良いから輪郭をくれ。
このままじゃ………僕はこの白い世界に融けてしまう…

走っていた
僅かに残った輪郭すら消えていく真っ白な世界を走っていた。
走っていた?
いや、本当に走っているのだろうか。
景色は変わらないし、ここがどこなのかもわからない。
どれだけ走っても息は切れないし、足がもつれることもない。
疲れることすらないから本当に走っているのかどうかもわからない。
それでも走っているという意識だけは保っていないと、ぼんやりと麻痺し始めている思考回路は忽ちこの真っ白な光の中に融けて消えてしまい、『僕』という人格は存在理由をなくしてしまうだろう。

僕が『僕』でなくなる

それは………『死』なのだろうか…

僕は………僕の名は……僕は誰なんだ…

視界の端に、何かが映った。
真っ白な世界における『異物』を見付けたような気がした。
消えそうな『意志』を振り絞って『異物』に駆け寄ると、それは小さな子供が黒のクレヨンで描いたような、稚拙なデザインの『真っ黒なドア』が立っている。
心なしか色がはみ出ていて、所々塗れていないようでムラがある。
真っ黒なドアは、ただ『真っ黒なドア』としてそこにある。
どこかの建物、どこかの部屋に通じているような境目としてのドアではない。
そう、例えるならドラえもんに出るような真っ黒な『どこでもドア』だ。
ただドアだけが独立して存在しているのである。

バタン

初めて僕以外の音を聞いて、僕は音のする方へ振り向いた。
少し離れたところに同じ黒いドアがある。
あれは、ドアが閉まったような音だったような気がする。

バタン

また同じ音。
今度は右隣から聞こえた。
振り向いて見ると、やはりそこにも黒いドアが存在している。
今閉めたばかりなのか、心なしかドアが揺れているような気がする。

バタン

今度はどこから聞こえてきたのかわからない。
周囲を見回すと横一列に真っ黒なドアが並んでいた。

ドア ドア ドア ドア ドア ドア…………どこまでもドアだ。

どこまでも地平線をなぞるように真っ黒なドアが無数に並んでいる。
バタン、バタン、という音もドアの数だけ鳴り響く。
これはこの世界からの出口なのだろうか。
このドアの向こうには何があるのだろうか。
どこでも良い。
こんな僕が僕でなくなりそうな世界でないのなら、どこだって構うものか。

真っ黒なドア
ドアノブでさえ真っ黒で、木製なのか金属製なのかわからない触り心地。

グルリとドアノブを回してみる。
鍵は掛かっていないらしい。
少し押してみると真っ黒なドアは何の抵抗もなく開いていった。
否が応にも向こう側への期待が膨らんでいく。
どうか、どうか、どうか僕を失望させないでくれ。
真っ黒なドアの向こうが、輪郭のない真っ白な世界だなんて絶望を僕に与えないでくれ。

ドアが開いた

その向こう側にあったのは……………


―――――――――――――――――――――――――――――――――



心療内科『Qクリニック』の診察室。
薄ぼんやりとした間接照明の中、診察台とは名ばかりの軟らかいソファーの上に僕は寝そべっていた。リラクゼーションのクラシック音楽が流れ、種類はわからないが嗅いでいると心が落ち着いてくるアロマキャンドルの香りが漂い、間接照明の軟らかい光が怯えていた気持ちをすっかり鎮めてくる。
「……それで、扉の向こうには何が?」
診察台の傍の椅子に腰掛けているQクリニック院長で心療内科医の“神埼のぞみ”が夢の続きを問う。ボードを片手に僕の話を聞きながら、夢の内容の重要な部分をメモしている。どうやら、これが僕のカルテらしい。
「覚えて……いません…。ドアの向こう側には何かがあったはずなのに、その怖い夢から目が覚めるとその部分だけがスッポリ抜け落ちているんです」
「……………そう」
彼女は短くそう言うと、視線を再びボードの上に戻した。

神埼のぞみ
このQクリニックの院長で、僕の主治医である。

ただの主治医と患者というどこにでもありふれた関係であり、それ以上でもそれ以下でもないのだが、正直なところ僕はそれが残念な気がしてならない。
心療内科に通う患者ではある
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