宵闇夢怪譚【心中の跡】

「お助けくださいまし、陰陽様。」

穢れた陰陽師はそこにいた。
肥後と豊後の境界に位置する山奥の朽ちた神社を根城にしていた。
聞けば母は狐だったとか。
若くして朝廷に仕えた陰陽師だったとか。
そして己の抑え切れぬ邪心に負け、かの殺生石より悪狐を解き放った咎により身分を剥奪されて朝廷を、京の都を追放されて流れ流れて、この朽ち果てた神社に流れ着いたとか。
年の頃は二十七。
噂される来歴があまりに祀られし神に似ていたために、人々は穢れた陰陽師を『再来様』『小はるあきら』と呼んで時に村々の祭事を執り行ってもらい、時に悪鬼に魅入られし者たちの苦しみを祓う拝み屋として男を敬った。

その陰陽師。
名を、沢木真紅狼と云う。

嵐の夜だった。
穢れた陰陽師は別段何ら変わりなく、閉め切った神殿の中で外から死霊の悲鳴のような太い風の音を肴に、雅な趣を醸し出す朱塗りの杯で濁り酒を傾けている。
ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れ、神殿を覆う闇が陰陽師の姿を侵食していく。
「桜香(ろうが)様、お寛ぎのところ申し訳御座いません。」
桜香というのは穢れた陰陽師のもう一つの名である。
神殿の閉め切った扉の向こうから澄んだ声が彼を呼ぶ。
名前を変えて呼ぶのには意味があった。
もしも『真紅狼』と呼ぶ時は何事もないのだが、『桜香』の名で呼ばれた時は何かしらの面倒事が起きたり、面倒事を抱えた来客が来た合図なのである。
陰陽師は呼びかけた声から、それが後者の来客であることを見抜くと事情も聞かずに『こちらへお通ししてくれ給え』と溜息交じりに言いながら、名残惜しそうに濁り酒を載せた膳を蝋燭の灯かりも届かぬ暗がりへと押し遣った。
衣服を正して、陰陽師は藁で編んだ座布団の上で正座をして待つ。
目を閉じて身動き一つしないその姿は、一見眠っているようにも見える。

スッと、音もなく神殿の扉が厳かに開けられた。

そこには袈裟も破れ、髭は汚らしく伸び、丸めた頭も雑草のようにだらしなく髪が伸びた修行僧らしき男が、まるで幽鬼のようにゆらりとした佇まいで頭を垂れ、どこか力の入らないと云った様子で正座をして陰陽師を見ていた。
痩せこけて頬の肉はなく、眼下も窪んで一目で憔悴し切っている。
こちらへ、と陰陽師は手の平を見せて神殿へと促す。
いつの間に出したのだろうか、穢れた陰陽師の座る藁座布団よりかは少し上等そうな丸い座布団が、まるで初めからそこに存在していたかのように陰陽師の目の前に敷かれている。
修行僧らしき男は、やはり力なくゆらゆらとした足取りでその座布団の上に座った。
さて、お伺いしましょう……と陰陽師が口を開くと、修行僧は震える声で言う。
「お助けくださいまし、陰陽様。女が……女が私を苛むのです…。」
「ほう。」
穢れた陰陽師はフッと微笑った。
修行僧の言葉を戯言と受け取ったのではない。
彼の言葉が真実であると見抜いた上で、興味深いと感じ入って微笑ったのである。
追い詰められている修行僧はそんな陰陽師の変化に気が付くことなく、まるで催眠術にでも掛かったかのようにポツリポツリと言葉を紡いで苦しい心の内を訴え続けた。
「……手前、以前は播磨の国にて主に仕えし武士で御座いました。何不自由のない日々、こうして僧としての生を歩もうなどとは夢にも思わぬ人生だったのです。しかし、手前は………おお……許されざる恋に身を…焦がしたのです。」
修行僧が語るには、男は道ならぬ恋に堕ちてしまったのだと云う。
相手は主人のお手付き。
理性では諦めなければと理解していても心は追い付かず。
いつしか思いを抑え切れず、互いに意識し合う仲になったとは言え、その関係が主人の知るところとなれば、当事者たる二人だけでなく、家族一族にも何かしらの累が及ぶところとなる。
そして二人は辿り着いてしまった。
この世で一緒になることが許されぬのであらば……と。
「心中で御座いました。二人して滝壺へと石を抱いて……。」
「……何の因果か、あなただけが生き残った。」
その通りです、と男は言った。
「武士を捨て、僧となって菩提を弔おうと決心し修行に明け暮れました。ですが先々月のことなのです。彼女は毎夜、夢に現れては手前を苛むのです。御仏の慈悲に縋り申した。南蛮の神なれば助けてくれるだろうと聞けばセミナリヨの門を叩き申した。しかし彼女は毎夜毎夜、手前の苦しみを嘲笑うかのように夢に現れるのです。私は、彼女がとても恐ろしいのです。」
おお、と修行僧は泣き始めた。
穢れた陰陽師は薄笑いの表情を崩さず、黙してその様を眺めている。
「最早御縋り出来るのは陰陽様だけなのです。どうか、どうかこの苦しみを」
祓って頂きたいのです、と修行僧は訴えた。
穢れた陰陽師は、何の返事もしない。
ただ深く目を閉じて何事か考えている。
「陰陽様!」
「…………………まずは」
蝋燭
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