時は天下泰平。
権現様こと徳川家康公が無事に130歳の誕生日を迎えて、人々が『実は本物の権現様は遥か昔に逝去されていて、大御所様として政を行っているのは刑部狸が化けているのでは』という例え真実であっても、悩んだところでどうしようもない不安が一種の笑い話となっていた頃のお話。
どういう訳か、我が家には一本だけ薔薇の木がある。
私が植えた訳ではなく、今は亡き両親も祖父母も植えた覚えはなかったと言う。
昔はそれはそれは立派なものだったのだが、先代たちとは違って私は植物に対する興味を持ち合わせておらず、手入れが面倒なために二尺五寸ほどまでいつだったか短く切ってしまった。
植木趣味(むしろ植木道楽)の知り合いに怒られるほど無計画に無造作に切ってしまったにも関わらず、何故かそれでも毎年必ず、真っ赤な美しい花弁を一輪咲かせる姿には自然に対する敬意を抱かずにはおれない。
先述したように、私には植物を育てるという行為には興味はない。
十石余りの扶持を貰ってはいるが、武士とは名ばかりの無役の貧乏一人身。
ちなみに嫁の当てもない。
武芸もそこそこ、学問もそこそこ、家柄悪しでは致し方なし。
武士であるが故に金ばかり出て行って私一人の生活にもあまり余裕はなく、当然のように傘張りなどの内職で賄っているが、下男を雇う余裕もないので当然庭も家も荒れ放題。
雑草だけなら問題はないのだが、本格的に夏を迎えると蚊などの害虫が心配になってくるので、いつまでもこの荒れ放題を放置しておく訳にもいかないと、私は一念発起して庭の草刈をすべく、物置にしまい込んだ錆びに錆びた鎌を見付け出すと、溜息混じりで雑草に覆い尽くされた庭という魔界に踏み込んだ。
そこで私は目を奪われた。
私の背丈の半分ほどに成長した雑草で覆い尽くされた庭で、真っ赤に咲き誇る一輪の薔薇をじぃっと見詰める大きな蜘蛛の妖かし。
私の存在に気付いてはいないらしく、大きな蜘蛛の妖かしは食い入るように薔薇の花を見詰めており、時折『ほぉ…』とか『ふぅ…』と言った何とも背筋がゾクリとするような艶のある溜息を柔らかそうな桜色の唇から漏らしている。
荒れた庭と咲き誇る一輪の薔薇、そしてそれを見詰める蜘蛛の妖かし。
その組み合わせがこれほどまでに美しいとは思わなかった。
いや妖かしそのものを目にするのは初めてだったのだが、私は人ならざる者に出会った恐ろしさよりも、蜘蛛の妖かしの美しさに心奪われてしまい、恐怖を忘れて手にしていた鎌を落としそうになった。
「あの……。」
何と声をかけて良いかもわからぬまま私は彼女に声をかける。
すると彼女は短い声を挙げて、やっと私の存在に気が付いた。
「……薔薇、お好きですか?」
そう問いかけると蜘蛛の妖かしの顔は赤くなり、そしてそのまま両袖で顔を半分隠して俯いたまま、恥ずかしいのか消え入りそうな声で『はい』と短く答えてくれた。
ああ、何だ。
おどろおどろしい講談や芝居小屋の出し物と違って、異形なる者もこうして見ると何とも素直で可愛らしいじゃないか、と私は内心認識を改めていた。
「何もお構い出来ませんが、縁側へ上がりませんか?」
「……お邪魔ではありませんか?」
お邪魔なんてと私は笑って、縁側から家に上がると押入れから、先祖の法要の時に寺の坊主が座るような上等な座布団を手に取ると、彼女にその座布団に座ることを勧めた。
「それではお言葉に甘えまして。」
と彼女は可愛らしい笑顔で座布団の上に腰を落ち着けた。
蜘蛛の下半身ではあるものの、その所作物腰はまるで貴人のそれである。
「あら……ここから見る薔薇も素敵…。」
なるほど、彼女の言う通りだった。
雑草は生い茂り、荒れ果てた庭に薔薇の真っ赤な花は小さいものの良く栄える。
時折聞こえてくる艶のある溜息を聞きながら、私と彼女はしばし無言で庭を眺めていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「申し遅れました。女郎蜘蛛の蓮華と申します。」
人ならざる者の急な来訪とは言え、私は来客に対し何のもてなしもしていなかったことに気付き、慌てて台所からお茶の入った急須とお茶請けの大根漬けをお盆に乗せて縁側で待つ彼女の下に戻ると、彼女は上手に三つ指を突いて深々と頭を下げると自らの名を名乗った。
やはり貴人のような物腰で、言葉尻にかなりの教養を感じさせる。
「家主様のお断りもなく、お庭を踏み荒らしましたことお詫びさせていただきます。」
「あ、いえ、お気になさらず!」
私は慌てて蓮華と名乗る彼女の謝罪を遮った。
この漂う知性と気品を考えれば、どこかの名のある神かもしれない。
そう感じた私は申し訳なさそうに頭を垂れる蓮華さんに、逆にこのまったく手入れしていない庭に踏み入らせ、尚且つそのようなことで頭を下げさせてしまったことに申
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