「ふぅ…。」
宿屋の一室に入ると、用心深そうな男は扉に鍵を掛けた。
ガチャリ、と古めかしい扉に相応しく、重々しい音が誰もいない部屋に響き渡る。
鍵が掛かったことを確認すると、男は姿を見せぬように窓に近付く。
二階の部屋から見下ろすと、街の人々の喧騒が聞こえてくる。
どうやら追手はいないようだ。
自らの用心深さ、気の小ささを嘲笑うように男は自らを笑う。
男の名は『ジョン=ドゥーエン』、宿帳にはそう書かれてある。
もちろん偽名。
『身元不明(ジョン=ドゥ)』を捩った名前ではあるが、大都市の安宿ではそんなあからさまな偽名にも、誰も気にも留めないので男はここしばらく、その『身元不明』のままで過ごしている。
年の頃は五十代半ば。
見事に伸びた白髪をオールバックに整え、年齢の割りには若い外見と男が纏う凛とした空気から推測すれば、どこかの地方でも治めていそうな立派な老紳士、それか慰労旅行中の老騎士に見えなくもない。
しかし、男は紳士でもなければ騎士でもない。
それは男の左腕として軋む、鋼鉄の義手が物語っている。
最新の義肢技術によるものではなく、酷く古臭く、酷くボロボロに傷付き、戦場や鉄火場以外では約に立たない義手であろうと、見る者が容易に想像出来てしまう代物である。
男は唯一の荷物とも言える細長い包みをベッドの上に置くと、柔らかなソファの上に身体を預け、ゆっくりと力を抜いていく。
そして、宿のロビーで購入した新聞の一面の見出しを見て呟いた。
「あれから…、もう四半世紀が経ったというのにな…。」
早いものだ、と男は溜息と一緒に吐き捨てる。
「セラエノ大戦……、いやもっと前のクゥジュロ草原…。それから四半世紀の間に様々な国が生まれ滅んだというのに、世界は本当に変わらない…。」
バサリ、と大きな音を立てて、男はソファに寝転んだまま新聞を読む。
一面の見出しは『親魔国王子暗殺未遂。またも【御子の後継者たち】の犯行か』。
事件としては簡単な記事だった。
親魔物国家ヒュガンナの王位継承権第二位という高位の王子が、公務の地方視察の最中に何者かに襲われ、左手の中指を斬り落とされたという事件である。
襲撃者の刃物に毒が塗ってあったと記事は報じているのだが、幸い王子は迅速な治療のおかげで命を取り止め、警察は逮捕した襲撃者を尋問しようとしたのだが、襲撃者は隠し持っていた毒物を服用し、自ら命を断ったのだという。
【御子の後継者たち】と名乗る『ネオ・レスカティエ主義』と呼ばれる急進的な反魔物主義を掲げ、自らを『革命家』として、遥か遠い過去に葬り去られたはずの理想を実現させるべく暗躍する反社会的テロリスト集団の一味の犯行と見られ、警察や近衛師団も組織の全貌解明と、事件の早期解決を公に名言しているのであった。
男の言う通り、何も変わっていないのである。
四半世紀経とうと、何百年変わろうと人間はまるで変わらない。
幾多の『魔王』という忌み名で呼ばれた為政者が歴史に現れようと、辺境地域に混乱を呼び込んだ急進的な反魔物国家が徹底的に滅ぼされてしまおうと、歴史は何度でも過ちを繰り返し、再び火種を抱えたままのありふれた日常に人々は埋没していく。
誰も彼もがそこにある泥を見ないふり。
人間も、魔物も、根本的な闇を忌み嫌う。
「………柄にもない。」
そう言って、男はベッドの上に置いた細い包みを手に取る。
包みを解くと、そこから現れたのは蒼い鞘の美しい刀。
シュッと刀を鞘から引き抜く。
鞘から現れた青味掛かった刀身は、日本刀の如く妖しく輝く。
その妖しい輝きを見詰めているだけで、不思議と男の心は鎮まっていく。
苛立っている、と男は深く目を閉じて考えていた。
何に対して苛立っているのか。
変わらない世界になのか、それとも変わらない世界に目を背けている自分なのか。
いくら考えてみても、答えなどない。
「……クック、お前は……、まだ甘い夢を追いかけているのか…。サクラ…、お前の目指す背中には……、もう追い付けたのか…。」
古い知り合いを思い出す。
かつて男と剣を交え、拳を交え、心を交えた懐かしくも尊い思い出。
彼らならこの苛立ちに答えてくれるのだろうか、と男は呟く。
「…生きていれば、お互いに良い歳だがな。」
それを理由に今度は杯を酌み交わすのも悪くはないだろう、と呟く男の背中には、半世紀以上もの長い時間を生きて積み重なった虚無と哀愁だけが漂っている。
男は懐から巻き煙草を取り出す。
積み重なった虚無と哀愁を取り払おうと、煙草を咥えて火を点けようとしたその時だった。
トントン…
控えめに男の部屋の扉を叩く音が、静かな部屋に響いた。
「……何用か。」
男は返事をしながら、蒼い刀を手に取った。
そして用心深く足音を殺して、扉のすぐ傍までやってきた。
返事は、ない。
返事がないことに、不審を
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