『彼女』との最初の出会いはTVのCMに映ったその一瞬だった。
何が僕を振り向かせたのかは今でもわからない。
でも、『彼女』の虜になるにはその一瞬だけで十分だった。
『彼女』に会いたいと十歳になったばかりの私は親にせがみ、
確か母に手を引かれて『彼女』に高鳴る鼓動の音を聴きながら会いに行ったのを覚えている。
背の高い大人たちを掻き分けて、僕は『彼女』の待つ場所へと辿り着いた。
ガラスケースの向こう側。
柔らかなライトの光を浴びている。
長方形に切り取られた微笑みの瞬間。
嗚呼、窓だ。
窓の向こうに『彼女』は僕に優しく微笑んでくれている。
その日から僕は毎日のように『彼女』の下へ通った。
少ない小遣いをやりくりし、もっともらしい理由を付けて『彼女』に会いに行った。
僕の特等席はいつしか『彼女』の前の長椅子だった。
日が暮れるまで『彼女』の下にいた。
いつまで眺めていても『彼女』は美しい。
僕の初恋の人
それは決してどこへも行かぬ一枚の油絵だった。
人間ですらない。
それよりも生物ですらないのが僕の恋だった。
それが不自然とも不気味とも感じなかったのは、きっと後になって僕が関口巽の『眩暈』や久保俊公の『匣の中の少女』などの陰鬱な幻想小説の世界をすんなりと私の中で受け入れられたことから考えれば、そういう素質があったのだろうと今は思える。
日曜日の昼下がり、あの日も僕はこうしていつもの長椅子に座って彼女の前にいた。
ガラス越しの逢引きが僕の日常。
そして見返りを求めない小さな幸せの日常だった。
彼女の名は『ヘルメル作・少女像』。
人気もなく、目玉の展示でもなかったのだが、僕は一目で彼女に恋をした。
寝ても覚めても彼女のことが頭から離れなかった。
それを恋と呼ばねば何と呼ぶだろうか…。
さすがに美術館に毎日通うことは容易ではなかったが、僕は小学生という身分を最大限に利用して、親から様々な理由を付けて小遣いをせびってはこうして美術館のいつもの長椅子に座っていた。
日曜日だというのに観客は僕一人。
後になって知ったことだが、この展覧会はあまり人気がなかったのだと言う。
シンと静まり返る美術館。
遠くで歩く監視の学芸員の足音ですら響き渡る程の静寂。
僕の目に映るのは恋した彼女の微笑み。
そして保護ガラスに映る僕の姿。
まるで彼女と並んで座っているかのような錯覚に僕は酔っていた。
恋した人と隣り合って座る幸せは何物にも変え難かったのを覚えている。
スッとガラスに誰かの姿が映った。
僕の他に誰かいたんだ、と思うと恥ずかしくて顔が真っ赤になった。
きっと僕は何とも言えないにやけた顔をしていたのだと思う。
恥ずかしくて俯いていると僕のすぐ傍に誰かが座った。
ふわりとした長いスカートが視界に映る。
「お隣、よろしいかしら?」
綺麗な声だった。
きっと彼女の声を聞けたならどんな声なのだろうと想像していた僕の耳に届いたのは、あまりにも僕の想像に符合した優しく美しい声だったのだから、驚いた僕は思わずその声の主に振り向いた。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって。」
そう言ってその人は微笑んだ。
言葉もなかった。
僕の目の前にいるのは、紛れもない絵の中の彼女だったのだから。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
理想的だった。
思い描いていたフレームの外側にある彼女の姿。
金色の髪がまるで絹糸のように滑らかで、上品な黒のドレスは嗅いだだけで心が気持ち良くなるような得も知れぬ良い匂いが漂い、まるで絵本に出てくるようなお姫様のように彼女は暖かな微笑みで僕に話しかけてくれた。
驚きすぎた僕はただ口をパクパクと動かしてばかりで、きっと顔は唖然としたまますごく赤くなっていたのだと思う。
フレームで切り取られた彼女の全体像。
それが僕の目の前に現れたのだった。
「坊や、誰かと待ち合わせかしら?」
「い、いえ…。」
待ち合わせてなんかいない。
僕はいつも一人で彼女に会いに来ていた。
しばし心地の良い無言が続いた。
「…………この絵、好きなのね。」
口を開いたのは彼女の方だった。
「いつもこの絵に会いに来ているわね。そんなに好き?」
「え…………あ……は…はい……。」
ただ目の前の絵が好きだと言うだけなのに言葉がなかなか出て来なかった。
まるで彼女に告白するような、そんな不思議な居心地の悪さ。
「いつも見てたわ。一人でこの絵の前で閉館時間まで見詰めている坊やを…。坊やくらいの歳で絵画に興味を持つって素敵だなって、つい興味が湧いて声をかけちゃった。迷惑だったかしら?」
迷惑なんかじゃない。
言葉に出来なかった僕は首をブンブンと横に振った。
ただ隣に座る女の人を直視出来ず、また視線を逸らすように俯いた。
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4]
[7]
TOP[0]
投票 [*]
感想