宵闇夢怪譚【悪夢、或いは楽園】

『神は誰一人救えない。』
これは画家・ヘルメルが、38歳の時に記した遺書の一文である。
彼は呪っていた。
自分の生い立ち、自分を裏切った者たち、そしてこの世界に君臨する神を。
画家の人生は順風満帆であった。
裕福な家に生まれ、若くして芸術家を志した彼は、多くの弟子を抱える高名な画家の弟子の一人になると、乾いた砂が水を吸い込むように技術を習得していき、気が付けば芸術愛好家でもあった、とある大領主に気に入られて、押しも押されぬ大画家の仲間入りするようになったのである。
だが、その順風満帆な人生も、大領主の死によって突如終わる。
大領主の後を継いだ後継者は、およそ芸術という芸術を解さない男であり、それどころか芸術の排斥運動を起こすと、ある例外を除いて絵画や彫刻、果ては文学に至るまでが、すべて破壊されたり、焼却されて、この世から姿を消した。
それでも存在することを許された物もある。
ある例外として排斥を免れた物。
それは宗教芸術であった。
文字を読めぬ農奴のために描かれた宗教画などは、その排斥を免れたのだが、ヘルメルが描いていた物は、当時はまだ珍しい、確立されたばかりの遠近法などの現在の画法を駆使した風景画や肖像画ばかりであったために、『この世の狂気』と遺書で痛烈に批判したように、彼の作品を含めた多くの名画が、宗教至上運動によってこの世から失われたのである。
自らの存在理由を否定された錯覚に陥った画家を、更なる不幸が襲う。
自らの作品を焼かれる光景を見せ付けられた上、大領主の後継者から直々に今後の芸術活動への支援を断つこと、さらに芸術活動で得たこれまでの地位を剥奪する旨を通達されて、深い絶望の底へ沈んだヘルメルを襲ったのは、長年連れ添った妻が愛人と共に、地位も名誉も失った彼を見捨てて屋敷から姿を消していたのであった。
莫大な借金を残した上に、彼が不義を働いたと領主に訴えただけでは飽き足らず、この度の排斥運動に彼は強い不満を持っていると訴え出た彼の妻は愛人と共謀し、彼に謀叛の疑いありと領主の後継者に密告し、その褒美として彼の地位をそっくりそのまま奪い取ったのである。
それからは酒浸りの日々が続いていた。
酒は絶望から一時だけ彼を解放してくれた。
しかし、酔いが覚めると耐え難い苦痛が襲ってくるのである。
逃げるために酒に溺れる。
それは、やがて精神を徐々に削り、彼の健康を蝕む。
一寸先も見えぬ闇の中で、細い細いロープの上を歩くような時間が続く。
そんな時間もある日、ぷっつりとロープが切れるように終わるのであった。
彼は真の解放を望んで、一通の遺書を書き殴る。
自分のこれまでの人生を振り返り、神を呪い、彼を追い詰めた人々を辛辣な言葉で罵り、諦めきれない生への執着を吐露し続け、やがて支離滅裂で判別も出来ないような文字の羅列に終わる。
インクは涙で滲み、ペン先は力を込めすぎて割れてしまう程。
そして、彼は自分の人生を終わらせる薬を飲み込んだ。
一説には青酸カリとも言われている。
『さようなら。もうこの世界に未練はない。』
遺書に残されたこの言葉には、一体どれ程の憎しみと悲しみが込められていただろうか…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


永遠に続く奈落。
私は首に縄を掛けたまま、いつ終わるとも知れない深い闇に堕ちていく。
嗚呼、これが死に向かう世界なのだ。
人生を全うせずに、身勝手に命を捨てた者へ与えられる罰なのだろう。
だが、私は十分苦しんだ。
これ以上は苦しみたくはない。
これ以上は裏切られたくない。
きっと、この縄がピンと張ると、私は死ねるのだろう。
どうせなら、この魂ごと消えてしまいたい…。
それすら叶わないのであれば、この世界は何と残酷に出来ているのだろう。
徐々に感じる体温の低下。
寒い…。
この暗闇は、何と寒いのだろう。
嗚呼、これが死ぬということなのか。
もう少し、恐ろしいものと思っていたというのに…。
嗚呼……、静かだ…。
心地良い闇に抱かれて眠るのも…、悪くない…。

『本当にそう?』

何か囁くような声が聞こえた気がする。
人は死の直前に走馬灯という数々の思い出を見るそうだ。
思い出せることなど何もないのに…。
何故、こんな頭が痺れるような甘く、美しい声だけが聞こえるのか…。

『死にたいの?』

お願いだ、謎の声よ。
私を、これ以上惑わせないでくれ。
もう疲れたのだ。
これ以上、この世界に留まっていたくはないのだ。
お願いだ、謎の声よ。
お前がもしも死神なのならば、私を地獄でも良い。
この醜く、薄汚れた世界以外ならば、どこでも良いのだ。
お願いだ、連れ去ってくれ…。

『あなたが、それを望むのであれば。』

首に打たれた縄が重い風斬り音を残して断たれた。
同時に私は真っ暗な闇に抱
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4]
[7]TOP
[0]投票 [*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33