あれから一週間…。
アヌビスに振られる無茶も一応の落ち着きを見せ、いつもと変わらない平穏な日々に戻りつつある。学園長室の机の上が雪崩寸前なのはいつものこと。
そろそろあいつに受けさせられた健康診断の結果も出てくるだろう。
この歳だ。
身体に気を付けろとか、酒を辞めろとか、煙草の量を減らせとか、新しい小言が来るのは予想済みだ。下手するとアヌビスはアスティアよりも五月蝿い。
…あいつらも心配しすぎだ。
俺の頭痛くらいで大袈裟なんだよ。
そもそも…、原因はわかっている。
後は、アスティアとマイア…、ついでにアヌビスに気付かせなきゃ良い。
窓の外を見る。
遠い山に日が沈む…、か。
今更ながらに捨てた故郷が何と懐かしいことか…。
放課後、すでに生徒たちは家に帰り、木造の校舎は夕日の強い光と冷たく深い闇の影の中で、不気味なくらいの心地良い静けさに包まれている。
ギシッ、と椅子が軋む。
身分不相応にフカフカの椅子。
これもアヌビスの気遣いだ。
座り心地は確かに良いが、心地が良すぎて落ち着かない。
「まったく…、揃いも揃って年寄り扱いしやがって…。」
だが、日の本にいて俺はここまで満ち足りた人生を送れただろうか…?
戦に次ぐ戦の日々、数多の怨念を背負い、静かな日常に帰ることなく、いずれかの戦場で躯を晒して、土に還る。それが…、関の山だっただろう。
雪崩寸前の高層建築のような書類を睨む。
やはり、今日中に終わらせるのは無理だ。
今日は早めに帰ろう。
帰ったら、マイアとアスティアに…、家を建てようと伝えよう。
帰ったら……。
…………。
………。
……。
―――――――――
私は…、迷っている。
彼、ロウガさんへの報告を迷っている。
私の腕の中には一枚の書類。
冷静に…、冷静にと自分を落ち着かせるために何度も暗示をかけて涙を流す。
何度も涙を拭いても、書類に目を落とすたびに暗示は消えてしまう。
尽きない不安。
結局、私には勇気がない。
だから、彼の教頭という立場に甘んじて、結果がわかっているからこそアスティアさんから彼を奪うことも出来ない。時にこの理性的に働く頭脳が恨めしく思う。
そして、この書類の中の事実を伝え切れず、ズルズルと何時間も無駄な時間を過ごしてきた。私らしくも…、ない。
学園長室の扉の前。
こうしてノックを出来ずに立ち尽くして、どれくらいになるだろう。
「おや、アヌビスじゃないか。どうしたんだ、こんなところで。」
「え、あ…。アスティアさ…先生。」
「先生はもう勤務時間外だから、良いよ。ロウガに用があるのかい?」
「ええ、この書類に…、目を通していただこうかと…。」
あまり…、彼女に見られたくない。
知れば彼女は苦しむことになる。
「…大事そうな話のようだね。大丈夫、私はロウガと…その、約束があったんだが、少しだけ残業になりそうなのを伝えようと思ってね。それだけ伝えたら退散するから安心して良いよ。」
私が何か言う前に彼女は何か感じ取ったらしい。
「ありがとうございます。少し機密事項に触れる内容ですので…助かります。」
「……もしかしてフウム王国の件かい?」
アスティアさんも懸念していること。
彼女やマイアが侮辱されたことに腹を立てたロウガさんが、王国の騎士に重傷を負わせた事件。すでにロウガさんの下へ王国からの使者が来て、交渉はすべて私に任されている。彼らは表向きは親魔物派勢力であるが、裏で反魔物派組織や教会と繋がっているため、交渉はあまり芳しくはない。私の分身たち、下僕のマミーたちの報告に喜ぶべき材料は見当たらない。
「いえ、今回のはそう言った用件ではありません。」
「…そうか。では先に私の用件を済まさせてもらうとするよ。ロウガ……。」
扉を開けたアスティアさんの動きが止まる。
部屋の中に…、ロウガさんが倒れている。
「ロウガ!?」
彼に駆け寄り、抱き起こすアスティアさん。
私は冷静にならなければと思えば思う程、深みに嵌って動けなくなってしまっている。
「アヌビス、医者だ!医務室に運ぶ!」
「あ…ああ…!」
足がすくんで動けない。
動いてほしい時に肝心なところで動かない、頭と身体。
「アヌビス!」
彼女の声ではっと我に返る。
「医務室に医者はまだいるか!」
「いえ、おそらくもう帰宅していると思います。」
「なら、誰か人をやって、医者を呼んで来てくれ!私がロウガを医務室に運ぶ!!」
「わかりました、すぐに手配を…。」
「…無用。」
気が付いたロウガさんが口を開いた。
まだ目を開けることはないが、意識はハッキリしているようだ。
「…すまん、心配をかけたな。だが、大丈夫だ。少し疲れが溜まったらしい。」
彼なら…、きっとそう言うだろうと思っていた。
自分のことより何よりも、アスティアさんと娘のマイアを大事に思う彼ならきっとそう言う。
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