第百六話・進撃の信仰(後編)

魔界のとある屋敷の庭に設けられた色取り取りの花が咲き誇る薔薇園。
薔薇の華やかな香りに包まれて、柔らかな日差しの中で少女とも大人の女とも取れる黒いドレスを着た女は、薔薇園に設けた上等で丁寧な刺繍の入った白いパラソルを立てたテーブルで、この薔薇園で取れた薔薇のお茶を楽しんでいた。
細い指は上品な所作でティーカップの取っ手に絡み付き、赤く艶かしい唇は薔薇茶に濡れて、より一層妖しい美しさを増していく。
暖かで穏やかな日差し、涼しげな風が吹き抜ける。
時折、女は組んだ足を組み替えたりするのだが、その仕草もまた艶かしい。
女の名は埜亞(ノア)。
あらゆる素性が不明のヴァンパイアで、今はとある人物の庇護の下、ゆったりとした穏やかで優雅な時間をこの屋敷と薔薇園で過ごす貴婦人である。
「あの迷い人は……、無事に辿り着けただろうか…。」
迷い人、というのは、かつて滅亡に瀕した神聖ルオゥム帝国への援軍を要請するために同盟国を駆けずり回ったが、すべてに断られ、絶望に打ちのめされた末、夢と現実の狭間に迷い込んだ騎士ラピエ=シュトーレンのことである。
「この館は外界と時間の経過が違うからなぁ…。無事に元の世界に戻って、彼の使命を果たしていると良いのだが……。さて、あちらの世界では何日くらい経ってしまったのだろうな。」
彼が帰ってしまって4日も経ってしまった、と埜亞は呟いた。
埜亞の言う通り、この屋敷は特殊な場所だった。
まるで他所と切り離された場所であるかのように、時間の流れがひどくゆっくりで、ラピエがセラエノへ辿り着き、紅龍雅が歴史の表舞台に立って神聖ルオゥム帝国皇帝を名乗るまで、屋敷の外では7ヶ月の月日が流れているというのに、この屋敷の敷地内では僅か4日しか経過していないのである。
「心配はいらないよ。彼は無事に辿り着いたさ。」
さぁ、と冷たい風が吹く。
冷たい風に埜亞が目を閉じ、再び目を開くと、テーブルの向こう側のもう一つの空いた椅子に、この世界におけるもっとも尊い貴婦人である魔王が、薔薇茶を淹れたティーカップを持ち、香りを楽しむかのように心地良さそうに目を閉じていた。
「来たか。随分と長いお出かけだったな。」
「またこれから出かけるよ。今度は、すべてが終わるまでは帰れないと思う。夫にはその旨をもう伝えているし、魔界の政(まつりごと)は彼や娘たちに任せれば事もなし。おかげで私はのんびりと羽を伸ばせるというものさ。」
ティーカップを傾け、薔薇茶を一口。
「……うまいな。」
「そうか。」
嬉しそうに褒める魔王に、埜亞は短く答えた。
「で、魔王。貴様はどこに行っていた?」
貴様がわざわざ出向くなんて珍しい、と埜亞は魔王を皮肉った。
沈黙。
魔王は何も答えず、薔薇茶の香りを楽しみ続けている。
埜亞も魔王が話し始めるまで、急かすことなく待ち続けた。
「……では答えようか、埜亞。君の弟の祝言を覗きに行っていた。」
「は…、弟ぉ?魔王、貴様ボケたか?私に弟などいるはずもなく、そもそも魔物に弟など生まれるはずもないだろう。長く生き過ぎると脳の活動が鈍ると言うのは本当のようだな。」
フン、と埜亞は足を組んだまま腕を組んで、不機嫌な様子で椅子に深く座る。
ボケたか、と罵られても魔王は動じず、素知らぬ風に澄ました顔のまま。
「間違いなく、君の弟だよ。実験体7号。」

ガンッ………ガシャーン……

テーブルを蹴り飛ばすと、埜亞は黒いドレスのスカートを翻して、激しい怒りの表情を浮かべてレイピアと抜き放つと、その鋭い切っ先を未だ笑顔のまま表情を崩さない魔王の喉に突き付けた。
魔王の白くて美しい喉に一筋の血が流れる。
「……取り消せ。例え貴様であろうと、それを口にするのは許さない。私は埜亞だ。誇り高きヴァンパイア、夜の支配者、不死王。それ以外の何者でもなく、そのような汚らわしい名前などではない!」
「埜亞、猛るのは構わないがね。君に私は殺せないよ。」
喉元を傷付けられているにも関わらず、魔王は平然とティーカップを口に運ぶ。
「知っている、貴様を殺せるのは貴様だけだ!」
それがわかっているだけに腹立たしい、と埜亞は吐き捨てた。
こくん、と喉を鳴らして魔王は薔薇茶を飲み干してしまうと、埜亞が突き付けているレイピアを払い除けて、寛ぐように深々と腰を据える。
「私は無限の住人だよ。あらゆる世界に私が存在し、あらゆる人々の中に私がいる。私を殺そうと思えば、君はいつ果てるとも知れない無限の命を滅ぼさねばならない。もしも君にそれが出来るなら……、君は私の世界を壊して、君の望む世界を作れるだろうね。」
それが魔王というものだよ、と魔王は意地悪そうに勝ち誇った顔を浮かべる。
忌々しい、と埜亞は吐き捨ててレイピアを鞘に収めた。
「だが、君をその名で呼んだのは私の落ち度。謝ろう。土下座でもしてやろ
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