2・罪なき罪、ただ赦しを乞う

さようなら、今日という日よ。

それが、あの日以来の俺の毎日。

抜け殻の日々。

終わりのない罪の意識。

初夏の夕立の中で、早くも蝉が死んでいる。

夏が、亡骸を残して旅立って逝く。

その中のどれだけの数が、あの人の所まで飛んでいくのだろう。

そんな思いを初夏の空に馳せていたりして………。

晴れ渡る空が顔を隠して雨が降る。

蒸し暑く、それでいて肌寒い。

雨は陰鬱になる。

雨は怖い。

あの人が泣いているようで悲しくなる。

俺は許されざる者。

何故なら、俺を責め続ける雨の日に彼女は還ってきたのだから…。




奇妙なものだ。
死んだはずの恋人、新免伊織に生き写しの女が俺の部屋にいる。
最初は雨に濡れた人間だと思っていたのだが、どうも違うらしい。
彼女とそっくりの黒髪は、まったく同じようだったが一本一本液体が固まって出来ているようだし、俺の頬を撫でてくれた懐かしい手付きは、人の手の弾力を持ちながら、やはり何か重たい液体が集まって出来たもののように感じた。
「伊織さん……じゃないの…?」
彼女の名を読んでも、目の前の人は首を傾げるばかり。
「いおり…。それが……わたしのなまえ…?」
「一体…、あなたは…。」
つい死んだ伊織さんを思い出し、口調は丁寧になる。
同じなんだ。
俺の記憶の中に残る伊織さんとまったく同じなんだ。
首を傾げる時の角度。
言葉こそ途切れ途切れなのに、同じアクセントで彼女は喋る。
「わからない……、わたし………だれなんだろう…。なんなんだろう…。」
彼女の言葉から、彼女自身、自分が何者なのかもわかっていないことがわかる。
「お………俺はこの部屋の住人で、川崎浩太郎って言うんだ。」
「こーたろー………こーたろー…?」
「ああ、浩太郎だ。もしもあんたに名前がないのなら……。」
ああ、本当に我侭だ。
俺の理不尽な我侭で、死んだ人が生き返ってきたなんて空想を満たそうとしている。
「伊織って名乗らないか?」
「いおり……いおり……わたしのなまえ……。」
「…………死んだ人の名前だけど…、嫌かな…?」
彼女はうーん、とぼんやりと考えると、プルプルと首を横に振る。
その仕草までがそっくりだった。
昔、死んだ人が生き返ってくれたら、きっと嬉しいんだろうと子供心に思ったことがあるのだが、現在の俺はその逆の心地を味わっていた。
心底、怖かった。
嬉しいと思う反面、心のどこかで言いようのない冷たい不安が生まれた。
その恐怖が、彼女に対してのものだったのか…。
それとも俺の彼女への、今は亡き伊織さんへの後ろめたさなのだろうか。
「いや……じゃないよ…。ありがとう……、わたしは…いおり。わたし……うれしいよ…。ありがとう、……なまえをくれて……。こーた。」
表情が凍り付いた。
彼女の発した『こーた』という俺の呼び方。
俺の恋人が笑顔で呼んでくれた………俺の呼び方だった…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


何もする気が起きない。
風呂に入ってから大学のゼミや部室に顔を出そうかと思っていたはずなのに…。
突然現れた伊織さんの亡霊に心は乱れ、ただぼんやりと部屋の隅から彼女を眺めていた。
1秒1秒、時を刻み続ける時計の音が五月蝿く感じる。
壁掛け時計なんか……、買わなければ良かった…。
雨の音も、時計の音も………、苛々が募る。
「……………。」
伊織さんの名前を与えた彼女は、うろうろと部屋の中を歩き回っている。
広くない室内。
棚の上に置かれた写真立てを胸に抱き続けながら、彼女はまるで懐かしむかのように部屋を歩き回り、時々あの頃と変わらない可愛らしい笑顔を浮かべる。
無言のまま。
俺の部屋に残る伊織さんの思い出の残骸を確かめるように歩き続ける。
いっそのこと……、恨み言を言ってくれ。
俺のせいで死んだんだと…。
そう言ってくれた方が楽になれるのに…。
「こーた……、これ……つかっても…い…い…?」
俺の思いと裏腹に、彼女は笑顔で語りかける。
手にしていたのは、使わなくなって久しくなる丸くて大きなティーポット。
いつも…、伊織さんが俺のためにお茶を淹れてくれていたティーポット。
何で………それを…。
食器棚の奥深くに俺の傷ごと隠していたはずなのに…。
「………いい?」
そんな俺の動揺など理解しているはずもなく、伊織さんと同じ顔の彼女は、思い出の中の彼女のまま微笑み、あの頃と同じ愛用の品を使おうと懐かしい言葉遣いで、俺に無邪気にねだるのだった。



「………どう…ぞ…。」
彼女の言葉は途切れ途切れ。
まるで言葉を思い出そうと必死に足掻いているようにも思える。
でもそんな彼女のお茶を淹れてくれる手付きだけは、思い出のままだった。
マグカップに淹れてくれたお茶。
あの頃と違うのは、伊織さん
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