ゆらり……
ゆらり……
心地良い苦痛の中でぼんやりとした意識のまま…
「 」はここにいる…。
何も見えない…
何も聞こえない…
臭いも感じない…
「 」はただただ、ひどく重い液体の中で身動き一つ取れずにいる…。
指はあるのか…
眼はあるのか…
何一つわからないまま、「 」は不気味な静けさに身を委ねて、終わりの日を待つ。
『これも駄目だ。』
『7号に続いて8号も駄目だったか。』
『これも空っぽだ。』
『廃棄しよう。すぐに9号の研究に取り掛かろう。』
『すべては我が王と偉大なる大司教猊下の御為に…。』
『御為に…。』
液体の外で冷たく、くぐもった声がする…。
でも理解出来ない…。
「 」は廃棄されるのか…。
どこか他人事のように「 」はその声を聞いていた…。
やがて声が聞こえなくなり、「 」は「 」に残された時間を考える…。
生まれたかった…。
どんな形でも良いから…
どんな形でも良いからこの世界を肌で感じたかった…。
こんな冷たくて、重い液体越しの世界じゃなく…
「 」は「 」の足で、一瞬でも良いから感じたかった…。
それは………「 」の記憶ではない…。
魂のない器、純粋で空っぽな入れ物が覚えている言葉にならない記憶…。
「 」ではない「 」の記憶に「 」は泣いていた…。
空っぽの器の記憶に同調し、「 」は泣いている…。
『生きたいかい?』
「 」は生まれて初めて、透き通るような美しい声を聞いた…。
やさしくて、暖かくて、「 」が存在していることを確信させてくれる声…。
美しい声は、そう声をかけたまま黙っている…。
そして、空っぽの器は頷いた…。
「 」がこの世界で、初めて「 」の意思を表した…。
『……ならば、おいで。魂のない器、形を持った純粋な命そのものよ。私はあまねく世界において、願いを叶える者。私でさえも、神さえも関知し得なかった命にどれ程の時間を与えられるかはわからないが、私が君を満たしてあげよう。君の器に魂を入れてあげよう。そうすれば、結果的に君はこの世界を、試験管越しではなく、その指で温もりを感じ、その足で世界の広さを感じるだろう。』
暖かな手に抱かれるように、「 」は冷たい液体の檻を抜け出した…。
初めて触れる熱に「 」の心は躍った…。
心などあろうはずがないのに、「 」はその本能で喜びを感じていた…。
『さぁ、空の器よ。君に魂をあげよう。君の中身を形成する魂の名は……。』
空白の「 」は初めてこの世に熱を持つ…。
「 」は名を得ることで、ただの命の塊から呪で世界に繋がれる。
「 」は初めて「俺」になった。
「俺」の名は…………………………。
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「すまないな、紅帝。お疲れのところをわざわざ足を運んでくれて。」
「いや、俺の方こそ助かった。あのまま風呂で溺れてしまったんじゃカッコが悪い。」
深夜、ヒンジュルディン城の長い廊下を歩く二人の影。
一人は紅帝、紅龍雅。
もう一人は先帝、現在は副帝のノエル=ルオゥムである。
ノエルは一応の軍務が終わったために、いつか龍雅に見せることのなかった淡い青の美しいフォーマルドレスに身を包み、龍雅はノエルに言われて直垂に烏帽子という正装で廊下を歩いていた。
龍雅の言う通り、彼は皇帝専用の広い風呂でこれまでの疲れを癒していたのだが、張り詰めていた気が緩んだせいか居眠りをしてしまい、顔の半分がお湯に浸かってしまっていたにも関わらず目を覚まさなかったのだった。
偶然、龍雅を呼びに来たノエルの来訪を召使が『おそれながら』と知らせようと浴室に足を踏み入れたことにより事なきを得たが、もしも誰も気が付かなければ、それこそ洒落にならない事態となっていたであろう。
「で、この廊下はどこへ通じているんだ?」
未だ城内の構造を熟知していない龍雅は、ノエルに行き先を訪ねた。
静かな廊下には、キビキビとした小気味の良いリズムでノエルのハイヒールの音が響く。
ノエルは振り返ることなく、歩く速度をそのままに答えた。
「教会の礼拝堂だ。」
「れいはいどう?」
「ああ、ヴァルハリア教会の寺院が小さいながら我が城には建てられている。私自身はあまり神など当てにはしていなかったから、それ程熱心に礼拝をしていた訳ではなかったんだが……まぁ、家臣たちがなぁ…。」
ヒンジュルディン城に建立されているルイツェリア寺院。
人々の祈りの家としておよそ200年前に建てられたそれなりに歴史ある宗教建築である。
歴代の皇帝が眠るその寺院は、様々な帝国の歴史を見守ってきた。
皇帝が即位し、新たな命がそこに生まれ、そして天に帰っていく歴史の流れを。
ある時は陰謀を。
ある時
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