キツネの嫁入り

「あら………雨…?」
女は暖簾を店の入り口に下げようと、引き戸を開けて小さく驚きの声を上げた。
パラリ、パラリと快晴の空から霧のような雨が舞い降りる。
俗に言う狐の嫁入りと呼ばれる現象。
こんな天気の時は、どこかの御山で狐が輿に乗って嫁入るするのだという。
もちろん、現代日本でそんなものを誰も見たことはない。
だが、見たことはなくても存在する。
愛の形を誰もが見たことがないように、
魂の形は誰もが知らないように、
形は見えなくとも存在するものはあるのである。
「……そう、お幸せにね。」
誰に語りかける訳でもなく呟くと、店の軒先に暖簾を下げ、女が置き看板の電源のスイッチを入れると、置き看板の柔らかい光が店の名前をぼんやりと浮かび上がらせる。
「………よし。」
女は下がった暖簾に拍手(かしわで)を二回打つ。
今日も無事一日を終えられますように。
そんな願い事をかけて、店の中へと女はまた消えていく。

今時珍しい、柿色の着物に割烹着。
綺麗な狐色の髪を結い上げた女の頭の上には、髪の毛と同じ色の狐の耳がピンと立ち、お尻のあたりにはフサフサの尻尾が一本、パタパタと揺れていた。

『小料理屋・月音』
今宵、やってくるお客はどんなお客だろうか…。


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はしご酒をしてしまい終電を逃してしまった。
しかも財布の中身は心もとない。
夏目漱石が僅かに4枚程度じゃ、タクシーで帰ることも出来ない。
サウナにでも寄って泊まるかと考えもしたが、雨が降って肌寒い夜にたった一人で夜を明かすのは寂しく感じ、俺はどこか遅くでも開いている店はないものかと繁華街の外れを歩いていた。
はしご酒はしたものの、酔えなかった。
そもそも、はしご酒になった原因は俺の失恋だった。
高校時代から付き合っていた彼女。
卒業して4年。
俺も就職して、何とか生活も地位も安定してきて、そろそろ結婚を…、と考えていた矢先に、いつの間にか浮気をされていて、その浮気相手と出来ちゃった結婚をしてしまった訳である。
「だってこっちの方がお金持ってるし〜。」
という捨て台詞を残して、彼女は去っていった。
そりゃあ、わかっているよ…。
仕事、仕事で彼女を放っていた俺が悪いんだって…。
でも、そんな言い草あるか…?
「さすがに…、こんな時間までやっている店なんかないよな。」
最近は条例も厳しい。
精々1時くらいまでしか営業を許されていない。
諦めて大人しくサウナに行こう…。
そう思った時、ぼんやりと光る看板と暖かそうな店の明かりが目に入ってきた。
「……小料理屋…、つきおん?」
まだ暖簾が出ている。
ああ、開いているんだ。
何となく嬉しくなった俺は、店の引き戸を遠慮がちに開いた。
「すみません、まだ……やってますか?」
店内に客の姿は見えない。
それでも煮物の良い匂いと品の良い琴の有線放送が流れる店内で、店の女将と思われる人が、やわらかい笑顔で俺を迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。はい、まだやっておりますよ。ささ、カウンター席しかありませんけど、今日は冷えますから奥の席にどうぞ。ちょうど暖かくなっていますよ♪」
女将さんの言葉に甘えるように、俺は暖簾を潜った。
暖かな店内と笑顔に、自業自得で荒んだ心に光が差した。
俺はそんな錯覚を覚えていた。


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「じゃあ、熱燗で…。」
熱燗と何か摘まめるものを頼んだ。
きっと閉店間際だったというのに、女将さんは嫌な顔をせず笑顔で答えてくれる。
コトッ、と目の前に出されたお猪口とお銚子。
手酌でお猪口に酒を注ごうとすると、
「お注ぎしますよ♪」
と女将さんが酌をしてくれた。
一言お礼を言うと、お猪口の中を一気に空にする。
何故か照れくさくて、嬉しくて、そういったものを流し込むように俺は熱い酒を飲み干した。
食道を通る燗された酒の感触。
焼けるような感触と、日本酒独特の発酵臭が心地良い。
「お客様、良い飲みっぷりですわね。」
「え、あ、どうも…。」
ちょっとお待ちくださいね、と言って女将さんはカウンターから出てくる。
丸下駄のカラカラという小気味の良い音を立てて、女将さんはお店の引き戸を開けて外に出る。
パチン、という音がして、ぼんやりとした白い光を出して俺を誘った看板の光が消える。
「んっしょっと。」
女将さんが戻ってきた時、手には暖簾が。
「あ、すみません。これ飲んだら帰りますよ。」
やはり閉店時間だったんだ。
そう思って席を立とうとすると、女将さんはそれを制止した。
「確かに閉店時間ですけど、今夜はお客様が最後のお客です。ごゆっくり飲んで行ってくださいな。その代わり、私もご相伴に預からせてもらっても良いでしょうか?」
「え…
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