gravity

魔界、魔王城に程近い場所に一軒の古びた屋敷がある。
すでに主のいない空き家。
今はただ懐かしさだけが、そこを訪れる者たちの胸に去来するだけ。
だがその懐かしさもすでに遠い昔。
彼女のみを残して、その屋敷の主の名を知る者はなし。

この物語は、
現魔王が長く続いた戦乱の末に玉座に座ったものの、未だ彼女を魔王と認めぬ抵抗勢力との小規模な戦が続いていた時代の、喪失と懐古の記憶である。




魔王軍初代元帥、源総次郎重綱(みなもとのそうじろうしげつな)。
魔王軍の記録に初めて記されたジパング出身者の人間である。
魔王をして、『その智謀は1000万の大軍に匹敵する』と言わしめ、魔王が玉座を得るに至る当時最大規模の戦争であった『オトズ会戦』にて最大敵勢力を討ち破り、魔王の基盤を磐石なものにしたことなど、多大な功績を残した魔王軍きっての大軍師として魔王軍創成期を記録した書物には筆頭で、その名が残されている。
また、当時はまだ政治闘争という陰鬱な戦いに疎かった魔王を陰ながら補佐し、敵勢力と通じて裏切りを打算する者、暗殺を以って魔王の首を狙う者たちや、特権を振り翳す大貴族との抗争など、政治的謀略渦巻く宮中の空気を一掃し、無秩序で無法地帯であった魔界に法を布き、幾億もの民の支持を以って、完全なる魔王独裁体制の基本骨子を確立するなど優れた政治家としての面も残されている。
もしも彼がインキュバスに転生し、魔王の補佐をし続けていたなら、今日までの教会勢力や神界との対立など存在せず、すべては彼の智略によって魔王の旗の下に統治されていたであろうと見る歴史研究家は少なくない。
しかし、歴史にもしもは存在しない。
それは魔王在位3年目の春の晩の出来事であった。


―――――――――――――――――――――――


屋敷の中には誰一人いなかった。
使用人も、誰も。
大きな屋敷はまるで巨大な牢獄のようにひっそりとしていた。

コフッ……。

コフッ……。

屋敷の奥、閉ざされた寝室の扉の向こうから渇いた咳。
扉の向こうは寝室になっていた。
ベッドの上には蒼白い顔をした男が横たわっていた。
男は魔王軍上級大将、源総次郎重綱。
総次郎は死病を病んでいた。
現在の医療技術であれば、助かったかもしれない病であったが、この当時は死病と恐れられ、誰もが感染を恐れて、彼の使用人ですら魔王軍最大の功労者を見捨てて屋敷を半ば封印する形で出て行ってしまったのである。
看病をする者はいない。
ただ一人を除いては…。


「ありがとう、シュタイナ。おかげで少し楽になった。」
「気にしないで。私にしか、あなたを看ることが出来ないんだから。」
女の名はシュタイナ=フランシェリン。
魔王軍陸戦大将として、魔王軍にその名を連ねる女性の一人であった。
人間でありながら源上級大将と共に魔王を補佐し、今日に至る繁栄を築いた総次郎と並ぶ功労者の一人なのだが、今、その身体は生ける死体、ゾンビとしての生を歩んでいた。
もっともその名はゾンビとなったその時から捨てられた。
誰もが王朝成立の功労者の一人である彼女を畏れ敬い、その名を口にすることを憚り、大将閣下、不死将軍などの敬称で彼女を呼ぶのだが、ただ2人だけは彼女の生前の名で呼び続けていた。
それは魔王と、病に臥した総次郎だけ。
その内の一人が今、彼女らの手の届かないところへ行くまいと必死になって戦っていた。
シュタイナはそんな総次郎を必死に看病した。
戦友として。
親友として。
そして、人間として生きていた頃からの恋人として。
「まったくついていないな。ルシィの留守を任されたというのに、この程度の病で歩けもしないとはな。兵はきちんと兵錬をやっているかい?諸侯たちはルシィの施政を忠実にこなしてるかい?」
「ソウジ、気になるのはわかるけど、今は心と身体をゆっくり休めないと治るものも治らないわ。みんなルシィの命令を忠実にこなして、あいつの帰りを待っているの。あなたには早く復帰してもらわないと、みんなの方が先に倒れてしまうわ。」
シュタイナは総次郎の額に置いた濡れタオルを水で洗うと、また彼の額に置き直す。
その冷たさに総次郎は気持ちの良さそうな表情を浮かべた。
魔王をルシィと呼ぶのは、彼らが魔王と旗揚げよりも前からの付き合いがあり、特にシュタイナは魔王の幼馴染であったからでもある。
今、魔王は親征を行っている。
敵は魔界制覇を成した魔王を認めぬ地方豪族が起こした反乱軍だったのだが、これはまだ人心が彼女に対してまだ懐疑的なためだという総次郎の進言により、魔王自らが出陣し、その姿を人々の前に現すことで王朝の安寧を計ると共に、圧倒的な大兵力を率いて未だ従わぬ地方豪族に対し、魔王軍の精強さを見せ付ける目的があった。
本来なら総次郎もシュタイナも、魔王に同行する立場だっ
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