帝国にとって、それは幸運だったのだろうか。
カイバル要塞が陥落し、追撃隊が追い付く前にクスコ川を渡った帝国軍は突然の大雨に襲われた。
これがもし渡りきる前に降られていたとしたら、如何に進軍速度の遅い連合軍であろうと、彼らは帝国軍に追い付き、荒れ狂う濁流と挟み討ちにし、帝国の歴史はその瞬間を以って、人々の忘却の彼方へと消え去っていたであろう。
雨は穏やかな川を荒れ狂う龍のように変えてしまった。
その流れに一度足を踏み入れたが最後、水の顎に飲み込まれ二度と帰れぬ旅へと逝く。
雨は一週間経った今も降り続く。
撤退の際に唯一の橋を帝国軍は自ら破壊し、天然の防御壁となった大河を挟んで帝国軍と連合軍は睨み合い、動けずにいた。
帝国にとって、幸運だった。
少なくとも彼らはそう感じていた。
「……くぅっ!」
皇帝、ノエル=ルオゥムが押し殺した呻き声を上げた。
「陛下……、今しばらく…。今しばらくの辛抱です。」
皇帝は専用の幕舎の簡易ベッドの上で上着を脱いで裸になり、シーツを握り締めてその痛みに耐えていた。
要塞防衛のため、皇帝は兵卒たちと共に戦った。
自ら剣を抜き、最前線で兵を鼓舞し戦ったのだが、力及ばず皇帝は深手を負い、兵卒たちはそれでも戦おうとする皇帝のために身を挺して、彼女や最後の切り札とも言える帝国軍精鋭のために退路を作り、彼女たちが撤退する時間を稼ぎ、最後の一人になるまで彼らは戦い続けたのだった。
そして今、彼女の純白の軍服は切り裂かれ、彼女の流した血が赤黒く、軍服を染めていた。
ノエル帝の侍従で騎士見習いの少年、キリエが彼女の縫ったばかりの脇腹の傷に、傷が乾いてしまわぬようにと、油薬を丁寧に丁寧に擦り込んでいく。
怪我の影響で熱を出したノエル帝は、献身的に傷の治療をするキリエに、荒い息で感謝を述べる。
「すまない、キリエ…。余はお前がいなければ、満足に傷の治療など出来なかっただろう。」
「いえ、当たり前のことをしているのです。陛下は何があっても生き延びなければいけないのです。ですから、そのように恐れ多いことを仰らないでください…。」
「…それは違う。生き延びなければならないのは、お前たちのような若い世代なのだ。キリエ、その目を逸らすことなく余の傷を見よ。余はお前たちのおかげでこうして生きているが、余の傷と死んでいった者たちの傷。一体どれ程の違いがある。」
「そ、それは……。」
キリエは答えられない。
「……余の傷も彼らの傷にも違いはない。皇帝などという称号を持っていようと、このように傷付き、死んでいく時は兵卒たちと同じように平等なのだ。余はお前たちのおかげで命を存えた。だが……、カイバルの兵たちは…!」
「陛下……、どうか心をお静めください…。きっと私もあの方たちと同じ状況に置かれれば、例え未熟な身ではあっても同じ行動を取ったでしょう。ですから今はご自身の身体だけをお考えください。この大雨で河川が荒れ狂っている間は、教主も王国も渡れないのですから。」
ノエル帝はその言葉に素直に従い、身体をベッドに深く沈めて、深い息を吐く。
彼女は目を閉じ、幕舎に響く雨の音に耳を澄まし、油薬を擦るキリエの手の動きを感じる。
「…そういえばキリエ。」
「は、はい。」
「この光景を誰かに見られたら、誤解されてしまうかもしれないな。」
その言葉の意味がわからず、キリエはしばらく考える。
そして彼女の言葉が意味するところに辿り着くと慌てて否定した。
「へ、陛下!どうか、そのようなお戯れはおやめください!!」
「おやおや。余の侍従は一体何を勘違いしたのかな。」
傷の治療のためとはいえ、若い裸の女性とその肌を触る少年。
見る者が見れば、それは皇帝の情事に見えなくもない。
ノエル帝はそんな彼の様子を楽しそうに笑う。
戦争の合間の小休止。
雨はまだ止まない。
皇帝は、これを不運と感じていた。
タイムリミット、時計の針が僅かに左回りで動いただけ。
誰もが幸運と感じる時間を、彼女は武運尽きるのが延びただけだと感じていた。
――――――――――――――――――
「厄介な川の流れだな…。」
リトル=アロンダイトは激しい雨が叩き付ける中、数名の供を連れ、増水し荒れ狂う川の視察していた。
対岸には敵陣の明かり。
それもしっかりとした柵や増水して渡れないというのに、見張りたちは油断なく自分たち、教会・王国連合軍の様子をを見張っていた。
「………敵、か。」
彼は敵ではないと思っている。
だというのに、それを敵と呼ぶことに彼は自嘲気味に笑った。
帝国はこの川をただの防衛ライン、帝都目前の最後の防壁にしか見ていない。
だがリトルは気が付いたのだった。
この川は防御よりも、攻撃に適した構造をしていることを。
「……義父上に報告しなければ。雨が止み、川が治まったら間違いなくフィ
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