第七十五話・旗揚げ前夜

正直な話をしよう。
アレはあそこまで狂暴ではなかったのだ。
開戦当初はまだいくらか理性的で、我々の命令……、いや。
私の命令をほぼ忠実に守り、
私への忠誠を忘れず、
神への信仰も失ってはいなかったのだ…。
真っ暗な部屋の中で、私は今日も眠れない。
「アレが……、アレさえ制御が出来ておれば…!」
そう……。
アレが………、制御出来ておれば…!
アロンダイト親子など頼らずとも、あの時、クゥジュロ草原での戦局を覆し、勇敢で悪魔たちを恐れず、私の真の後継者たる次男、カールを失わずに済んだというものを…。
大司教猊下には、アレを戦場に出せない理由を今の戦力で十分だと申し上げているが、本当のところは恐ろしいのだ。
アレは……、すでに我々の制御を放れ始めている。
アレを作り上げるためにゆうに40年、完成まで12体もの失敗作を生み出し、錬金術の粋を集めて完成させたというのに何故だ!
魔物と共存などという世迷言で人々を誑かす連中を滅するために、父上の代から続けてきた研究がついに報われたと思っていたというのに…。
アレは血を……、肉を求めている…。
「……フィリップ王。よろしいでしょうか?」
全身に黒いローブを纏う魔術師が私の幕舎に顔を出す。
定時報告の時間のようだ。
「アレは……、相変わらずでございます。ですが、食事が終わると僅かながら理性が戻ったようでして、王にお変わりはないかとお気遣いでした。しかし、記憶はいつものように……。」
「………あの日で止まったままであるか。ご苦労であった。引き続き、アレの封印を強めよ。暴走してしまっては何の意味もないのだからな。」
「御意。ですが我ら魔術師の数を増やしていただきたく、こうして参った次第でございます。」
「すでに4人も付けておるではないか!?」
魔術師は言い難そうに顔を歪め、おずおずと答え始めた。
「……このところ食事量も増えましたが、それに比例致しまして身体もより大きくなり22フィート(およそ7m)にもなり、身体の大きさに合わせて魔力までより強大に…。すでに封印を幾度となく破り、その隙間から見張りを食い殺す有様。より大きな結界と幕舎が必要となりますので、後3人は付けていただきたいのです。事は、急がねばなりません。」
「良かろう、許可する。」
静かに魔術師は去っていく。
アレはこの戦争に、この世界を救うために必要な存在だ。
ヴァルハリア領民の兵卒たちは実に素晴らしい攻撃力を発揮してくれたが、進軍速度というものが限りなく低いのが難点なのだ。
本当なら要塞から撤退するルオゥム皇帝を追撃するのが定石だったというのに、彼らは砦に残って殿(しんがり)を務めた兵たちに一々構い、しかも生きている者がいなくなるまで、隅々まで探し続けたものだから皇帝の敗走を指を咥えて見逃し、みすみす勝ち戦を逃してしまった。
現に今も我々はカイバル要塞に駐留し、彼らは勝利に酔っている。
大司教猊下もしばらく落ち着く暇もなかったとのことで、要塞にて腰を下ろしているが、おそらく帝国は防御を固め、態勢を整えている頃であろうな…。
アレを出さなければならないかもしれない…。
我々に牙を剥かなければ良いのであるが…。


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名もなき町に入ったラピスは、帝国や同じ反魔物国家しか知らなかったために初めて見る異文化にある種の恐怖を感じていた。
魔物が何の遠慮もなく闊歩し、人間も彼女らと通りを行き交う。
しかし、それ以上に彼は驚愕していた。
戦争に入ろうかというのに、人々の顔には笑顔があり、市場には活気が満ち、酒場では人々が自由に賭け事や宴会を楽しみ、子供たちは広場で無邪気に遊んでいる。
神聖ルオゥム帝国においてはノエル帝が即位してから戒律の軟化政策を行い、ある程度の自由と活気が帝国に溢れ出しているのだが、ここまで活気に満ち、人間も魔物も、その魂のあるがまま生きている世界を見たことがなかったのである。
「……素晴らしい。」
「お、わかるかい?これがあんたらの言う悪徳の町さ。だがね、俺は悪徳でも良いと思っている。鎖に縛られたまま生きるのは、ただの奴隷さ。俺が商人なんてやっているのも、自由にこの空の下を歩いて行きたいだけなんだが、この町ときたらある意味俺の理想の場所なんだよ。魔物だ、人間だ、神だ悪魔だの五月蝿くない。親魔ですらない不思議なとこさ。」
「…こんな辺境の地に、このような国家が存在しようとは。」
「国じゃないよ。ここの権力者はただ町の統治権を勝手に押し付けられて、仕方なく長(おさ)の座にいるだけ。周辺の豪族たちに影響力こそ持っているけど領地は持っちゃいない。実際、あのジジイは今でも学園長なんて小さな椅子の上にいるつもりらしい。贅沢な男だよ。」
ついさっきの恐れはどこへやら、ラピスはヘンリーの荷馬車
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