男に顔はなかった。
誰かと擦れ違うたびに顔が変わっていく。
厳つい肉体労働者風の青年、
陰気で骸骨のようにやせ細った老人、
高貴な身分のような美女、
様々な人種や顔に変化する男は尾行を撒くために擦れ違うたびに変装を変えていく。
尾行するのはヴルトームの部下。
彼女もまた、自分たちが町へ辿り着く前に、ロウガという男が如何なる男か、名もなき町とはどのような町なのかを調査させるために、先行して秘密裏に部下を潜入させていた。
それが突如届いたネヴィア暗殺予告を受けて、ヴルトームの指示の下、魔王軍にとっても同盟関係にあるパンデモニウムから預かったネヴィアの命を守るために、彼らはたった一人の男を追いかけていた。
男の名はアルスタイト。
本名は明らかになっておらず、ただ彼の通称、『代行者』という名が知られるのみ。
教会の、神の、神罰の代行者。
ヴァルハリア教会司祭の表の顔を持ち、対外的にではあるが教会非公認で教会に対抗する者を秘密裏に消し去る暗殺者としての裏の顔を持つアルスタイトは、追手が迫っているというのに、その追手を嘲笑うようにいくつも顔を変え、ヴルトームの部下を翻弄していた。
彼女の部下も人の波に一瞬消えるたびに姿形が変わるアルスタイトを何度も見失い、見失うたびに彼らに挑発的に微笑みかけるアルスタイトに、薄気味悪い思いを感じながらも命令通りに彼を追い続けていた。
だが、彼らの苦労は報われることはなく、再び人々の雑踏に紛れてしまうと二度とその姿を現さなかった。
ただ一つ。
追手の一人の耳元に囁きを残して。
「安心しなさい。まだ殺してあげない。」
アルスタイトは神に愛されし者。
彼に関する記述にこういう文言がある。
それは宗教的意味合いではなく、ある意味それは誇張表現の大きな教会歴史資料の中でも数少ない的確で、客観的な表現であると言える。
アルスタイトは物心付く頃には、教会で修道士として生きていた。
神の教えを決して疑わず、幼くして経典を一字一句まで諳んじるという神童であったという。
それだけの経歴を見ても神に愛されているという記述は頷けるものがある。
だが、決定的な彼の人間的な欠陥が教会的に見て、神の寵愛を受けていると言っても過言ではなかった。
痛覚の欠落。
それが最初のアルスタイトの奇跡。
彼は傷付くことを恐れず、神の教えに忠実に、教会の正義を貫き、修道士時代から反魔物闘争に身を投じていたのである。
それは傷付くことを恐れないのではなく、傷付くという認識を知らぬ彼だからこそ出来たことなのだ。
そして彼が成長し、思春期を迎えた頃に発覚した第二の奇跡。
完全なる不能、性的感覚の完全なる欠如。
教会はその事実を知ると、アルスタイトを修道士から司祭へと昇格させた。
この世界に蔓延る不浄と快楽から解放されし者として彼は記録されている。
だが、その頃から彼は闇へと堕ちていった。
まず彼の飼い猫だった黒猫が、赤く染まった。
首の骨を砕かれ、両目を抉り、震えるように痙攣する猫を、真っ赤な手で握り潰す彼の姿が、同僚の司祭に目撃されている。
驚き問いただす同僚に、彼は悪びれる様子もなく、
「この子が、魔物になってしまう前に神の元へ送ったのです。」
と、平然といつも通りに微笑んで答えると、そのまま抉り取った猫の瞳を祭壇に捧げ、神への祈りを捧げたのだという。
同僚が残した日誌によれば、彼のそういった行動は度々見られたという。
猫、馬、牛など魔物たちを僅かでもイメージさせるものは、大概手にかけた。
そして、その標的が人間に向かうまで、それ程時間はかからなかった。
ある日、同僚が朝の祈りを済ませ、日課であった花壇への水遣りのために庭に出ると、彼は腰を抜かし、悲鳴を上げて花壇への肥料や水を投げ捨てて教会へと逃げ込んだ。
庭の木に、少女が首に縄をかけられて吊るされていた。
その少女は教会のあった村の娘で、気立てが良く、貧しい家庭のために畑で出来た野菜を売り、その僅かな売り上げで慎ましく暮らす、村の男の誰もが恋をするような笑顔の可愛い少女であった。
同僚の司祭はアルスタイトを問い詰めた。
するとやはり彼は否定する訳でもなく、平然と答えたという。
「人々を堕落させる程美しいあの娘は、きっとサキュバスだったのでしょう。でもご安心なさい。悪の芽は私がすべて摘み取っておきましたから。」
同僚が彼の言葉に驚いていると、その知らせはまるで閃光のような速さで彼の耳に届いた。
少女の一家は全員、血の海に沈んでいたと。
それから彼が暗殺者になるまで如何なる経緯を辿ったのかは明らかになっていない。
ただ一つわかっていることは、彼は欠落した感覚、欠落した快楽の代償として他人を欺き、怯える敵を嘲笑い、その刃物を突き刺すことで、肉体的な快楽から精神的な快楽を求めるようになったということであ
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