前編

 東方はジパングのとある森の奥深くを、一人の年若い男が歩いていた。

 彼の名は刹那という、一風変ったものであった。
 それというのもこの若者、まだ目も開かないうちに寺へと預けられて『刹那』の稚児名をもらい、元服の時期を過ぎた現在でもそのまま名乗っているのだ。
 見た目も性格も幼い刹那はこの名を大変気に入っており、また、髪を切らずにその名を持ち続けることが、孤児であった彼に名をくれた寺への恩義の証でもあった。

 刹那が育てられた寺は近辺にカラステングの里がある山の頂にあった。そのため彼は寺で育った仲間たちと共に朝から晩まで山を駆け回り、里のカラステングたちから剣の稽古をつけて遊んでもらうという幼少期を過ごした。
 寺を出てからは天狗直伝の剣術を売りに用心棒のような仕事をこなし、諸国をあちこちを見て回る生活をずっと続けている。
 別に一所に留まれぬ性分ではない。
 ただ寺を継いだ仲間がいてくれたので、せっかくだからと旅に出てみることにし、それ以降は腰を落ち着ける場所も機会も特になかった、というだけの話であった。

 そんな刹那が森に足を踏み入れているのは、先日立ち寄った町で『大百足の退治』を依頼されたのが理由だ。

 大百足は魔物に対して親交の深いジパングの中であっても『怪物』と恐れられる魔物である。
 性格自体は陰気なのだが、かのウシオニに並ぶほどの凶暴性を秘めた本性を持ち、一度男を手に入れれば二度と手放すことはない。
 時には人里に降りてきて男を襲うこともあり、今回調査を依頼されたのも森で大百足の目撃上があったためであった。
『どうにもまだ相手のいない大百足らしく、町の人間が襲われても困るうえに、放っておいたら町にやって来る人足の方が鈍ってしまう』と町の衆に泣き付かれてしまっては断るに断れなかったのだ。本人はあまり気付いていないが、刹那は生来人が好いのである。

(しかし、大百足の退治とは……引き受けたのは良いけれども、どうしたもんだろう)

 烏天狗に指導を受けていたこともあって、刹那は魔物に対する忌避感・嫌悪感の類は全く持っていない。たとえ大百足が凶暴な妖怪であるといえども、無闇に危害を加えるつもりはないのである。ましてや命を奪うようなことは絶対にしないと、町の人間にも言ってある。
 だからといって大百足をそのままに放置しておくわけにもいかない。大百足と結婚したいという男でもいれば円満に解決しそうなものだが、残念ながら町の男たちには皆断られてしまった。妖怪を伴侶にする者は決して珍しくないものの、流石に相手が大百足とあっては抵抗があるらしい。

(別の土地に移り住んでもらうか? でもそれじゃ根本的な解決にはならないし、そもそも大百足に話が通じるか分からないし……第一、住んでる場所を追いたてるってのが良くないよなぁ。あふぅ……どうしようか……)

 無責任に安請負をしてしまったものだ。そう今更になって頭を抱え始めた刹那だったが、立ち往生するわけにもいかず、森の奥の奥、誰も足を踏み入れないような場所にまで入って、例の大百足を探し始めていた。
 入り組んだ森の中を歩くことには慣れっこであるし、大百足が近くに来れば音や気配ですぐに気付くことができる。自分が襲われることになっても、頭上の木々を足場にすれば逃げることなど造作もない。本当に万が一の事態になれば腰の刀で撃退することだってできる。そこはカラステングたちを相手取って鍛えてきた自負が刹那にはあった。

(ん……? もしかして、この音は……?)

 木々がますます鬱蒼と茂り、辺りにうす暗い雰囲気が漂い始めた頃だった。遠くから何かの物音が微かに聞こえ、刹那は目を閉じて注意深く耳をそばだてた。
 聞こえてくる音は二つ。こちらに距離が近い音は、草葉や地面を蹴り上げる音の方だ。森を駆け抜ける獣の足音……だが軽い。恐らく兎のような小動物だろうと推測できる。
 そしてその後方にもう一つ何かがいる。ざわざわと草葉を蹴散らしていく何かが。奇妙なことに土を蹴る音が一切しない。初めて耳にする、まるで這うような音――
 それが目的の足音であると判断した刹那は、すぐに傍の大木の枝に駆け上って息を潜めた。枝葉を寄せて身を隠し、じっと音が近づいてくるのを待つ。

 小さな獣の気配。
 大きな得体の知れない気配。
 そして木陰から兎が飛び出した次の瞬間に、蟲の巨体がぐわりと覆いかぶさるように現れ、兎を捕らえていた。

(あれが大百足……!)

 暗い緑色をした体が節になって幾重にも並び、対になった褪せた赤色の脚が無数に蠢いている。得物を抱えた上体が身じろぎをすると、そこから伝播するように蟲の体はうねりをあげていく。尾の先に付いた牙を恐ろしげに開き、キチキチと音を立てて脚を鳴らすその様は、まさに百足そのものだ
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