ウェールズのアングルシー島。
産業革命の余波が及んでいないこの島の、牧場と麦畑ばかりが広がる丘の一角に、そこそこ大きな二階建ての屋敷がある。
庭にある背の高いオークの木が目印のこの屋敷こそ、イギリス貴族の三男坊で今年十五歳になるユーリが暮らす家だ。
機械みたいに淡々と作業をこなす召使いと一緒に。
血の繋がった家族と離れて。
たったの一人ぼっちで。
まるで幽閉でもされたかのように。
※
ユーリの詩が翼を持ち始めたのは、ある冬の朝のことだ。
閉め忘れた窓から吹き込んだ冷たい風でユーリが目を覚ますと、窓辺にセイレーンが居た。
オークの木の太い枝に腰掛けて、ユーリがコマドリのために用意した栗をポリポリ齧りながら、小鳥たちとピーチクパーチクおしゃべりに興じている。
それは非常に絵になる光景だった。
娼婦よりも露出の多い、ともすればはしたないとさえ言える格好の女の子。しかし彼女の奔放な笑顔は力強く、生命力に溢れていて健康的だ。フラゴナールのロココ画のように、年頃の少女だけが持つ妖艶さと清純さの危ういバランスが見事に保たれている。
だが、まだ十五歳のユーリにはそんな小難しいことは解らない。
素敵な光景だな。
そう思いながら、朝日に照らされるセイレーンを寝ぼけた眼で見つめているだけだ。
「おはよう少年。この木、ちょっと借りてるわよ」
「ああ、うん、どうぞ」
低血圧のせいで全然動き出そうとしない脳味噌が、勝手に適当な返事をする。
ユーリは、眼を覚ましてから動き出すまでに三十分もの暖機運転を必要とするのだ。
でも、この日のユーリは頑張った。のそのそと冬眠中のクマみたいにゆっくり動くと、ベッド脇のナイトテーブルから万年筆とメモ帳を手繰り寄せる。
新しい朝に、とか、オークの木の小鳥、とか象徴的な言葉が書き連ねてあるそのメモ帳は、ユーリの詩作メモだ。目の前のセイレーンに受けたインスピレーションをなんとかメモに残そうと、気だるい体を酷使しているのである。
「それ、なに?」
じっと自分を見つめるユーリの視線が気になったのだろうか。セイレーンが小首を傾げて聞いてきた。
ただの落書き。そう簡潔に答えたユーリに、セイレーンは納得しない。
「随分真剣な落書きなのね?」
「そう見える?」
「見えるから聞いてるのよ。ちょっと貸して」
ユーリはのたのたと窓際まで歩くと、差し出されたセイレーンの翼にメモ帳を乗せた。
羽毛に埋もれて見えないがちゃんと指があるらしく、翼を使って器用にメモ帳をめくる。
「翼の生えた少女……風の詩……狩人……これ、詩? メーリケのパクリっぽいのばっかり」
「好きなんだよ、メーリケ」
エードゥアルト・メーリケはドイツのロマン主義詩人である。数多くの魔物と親交があったらしく、彼女たちから聞いた恋愛物語をときにユーモラスに、ときに強烈に、悲喜こもごもに仕立て上げる名人だ。
ユーリは、感情の爆発ともいうべきメーリケの詩をはじめて見たときから、彼の熱烈なファンになった。
「へぇ。イギリス人なのにメーリケが好きなんだ? それじゃ、栗のお礼に――」
セイレーンは何度か咳払いをして喉を整えると、歌い出す。
「僕は知っている! ハチミツよりも甘いものを! 愛する恋人とキスすることほど甘いものは、この世に無いのだということを! だが僕は、あの娘の唇の甘さを知らないのだ!」
メーリケの、少年とハチミツという詩だ。
女が歌うと味も素っ気も無いし、男が歌うと生々しく下衆た感じになるこの詩を、彼女は完璧に歌い上げた。ボーイッシュなセイレーンの歌声が、思春期のませた少年が抱く恋の矢となって放たれる。
目標はユーリただ一人だけ。
胸の奥の深いところを射抜かれて、一瞬グラリとよろめきそうになる。
一発で目が覚めた。
気だるさが吹き飛んだ。
寝起きの頭痛も消え去った。
詩や物語の中でしか知らなかった恋という感情が身体の中で炸裂して、その真実をユーリに叩きつけてくる。甘いだけだと思っていたあの感情が、こんなにも激しいものだったなんて。
「拍手とか、無いの?」
「あ」
ついさっきまでとは違う理由でぼうっとしていたユーリは、促されて慌てて手を叩く。
セイレーンは仰々しく頭を垂れると、それじゃあね、と手を振って飛んでいってしまった。
「あ」
ユーリは何の声もかけられず、セイレーンを見送るしかなかった。
時間にして五分にも満たない出来事だったけれど、胸に植えつけられた甘い疼きはもう二度と消えそうに無い。
「また来てくれるかな」
もう見えなくなってしまった彼女の姿を探して、ユーリは空を見上
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