紅い媚薬




 時刻は夕方を過ぎ、そろそろ夕食時になろうかという頃。
 家々は徐々に明かりを灯し、それぞれの夕餉の匂いが街中に満ち満ちていく。

「痛っ!」

 そんな中。街のほぼ中央に建つ大きな屋敷の厨房で、給仕服を着込んだ少年・リュートは小さく悲鳴を上げた。その容姿は明るい茶髪に年端も行かぬ童顔、華奢な体付き。この屋敷の使用人である彼は、流し場で水仕事をしている最中だったらしい。シンクに置かれた金属製のボウルの中では、蛇口の水に流されるじゃがいもがゴロゴロと転がっていた。

 一旦蛇口を閉めて、リュートは苦悶の表情で自分の右手を凝視する。その視線の先では中指の爪の間がぱっくりとあかぎれを起こしていて、滲み出た血がじんわりと指先を染めていた。傷口は深くは無いが浅くも無く、ふるふると震え続ける中指が彼の感じる苦痛の強さを物語っていた。

 よくよく見れば、彼の両手はまだ十代も前半の肌とは思えないほどカサカサに荒れていた。季節は既に秋から冬へと移ろい始めていて、地下水を利用している水道の水は異様に冷たく、加えて空気もめっきり乾燥してきている。当然使用人ともなれば炊事・洗濯・掃除と水に触れる機会が多く、そのためリュートの手はすっかり油分を失い、乾燥してしまっていたのだった。

「ぅう、やっちゃった……」

 今しがた作ったばかりのズキズキとした紅い痛みに、彼は嘆く。
 もともと乾燥肌の嫌いがある彼の経験上、一つあかぎれを起こせばそのまま二つ、三つと傷が増えていくのは分かり切っていた。これから先、確実にボロボロになっていくだろう自分の手を想像したリュートは深く深く、溜め息をつく。

 しかし雇われである以上、与えられた仕事をこなさない訳にはいかない。せめて傷口を洗おうと、再び蛇口の栓を開けようとしたリュートは。

「ふむ、仕事中に手を止めるのは関心しないぞ、リュート」
「ぅわあっ!?」

 直後、真後ろから響いた声にびくりと肩を跳ねさせた。
 驚愕の声を上げて、咄嗟に背後を振り返る。

 そこには、鮮血にも似た真紅の瞳でじぃっと彼のことを眺めている、麗しい美女の姿があった。
成人男性にも引けを取らない長身と、直立不動に腕組みという立ち姿が、見る者に否応ない重圧を感じさせる。目蓋をすぅと細めて、自分より頭一つ以上背の低い少年の姿を見下ろしていた。

 彼女の名はヘレナ。この屋敷の主人の娘にして、リュートの仕える直属の主。
 誰もが目を見張る美貌。月の光のように煌くショートの金髪。身を包む、宵闇の色と血の色を基調とした質の良いドレス。その場に居るだけで誰もが釘付けになるだろう圧倒的な存在感に、落ち着いた雰囲気の口調からは育ちの良さを垣間見せる。

 そんな彼女の正体は、自ら貴族を名乗る、名乗るに値する実力を備えた高貴なる種族、ヴァンパイアだった。

 今から数ヶ月前、何処にでもある一般家庭の末っ子でしかなかったリュートを、ある日突然、自分の屋敷の使用人として雇い入れ、有無を言わさず連れ帰った張本人でもある。

「……何をそれほど驚く?」
「い、いきなり背後から声を掛けられたら誰でも驚きますよ、ヘレナ様っ!」
「ふむ……」

 未だ心臓をバクバクと跳び上がらせるリュートは、主に向けて非難の視線を送る。
 それは貴族に仕える一介の従者としては有り得ない、反抗するかのような姿勢だ。

 それまで思考の読めない無表情を貫いていたヘレナは、そんな従者の様子を見て、紅い瞳を尚更に細める。そして、ヴァンパイアの備える獰猛に尖った犬歯を見せ付けるように、口の端を吊り上げると……
 どうやら彼の小動物めいた驚きようが可笑しかったらしい、非難の視線にも何処吹く風と、くつくつと楽しそうに笑うのだった。

「ふふっ。確かにそれは、私の落ち度に間違いないな。潔く認めよう。……だが、手前の主の食事を作っている最中だというのに、手を休めて堂々とサボタージュとは。窘められても仕方が無いのではないか? リュートよ」
「……っ!?」

 ヘレナは謝罪の言葉もそこそこに、従者の不手際を追及する。たじろぐリュート。
 とはいうものの、リュートが仕事の手を止めていた理由が何であれ、ヘレナには問い詰める気など毛頭無かった。自らが認めた上で雇い入れた従者のことを、実のところ微塵も疑ってはいない。彼の愚直なまでの生真面目さを、彼女はとてもよく理解していたからだ。決して怠慢を良しとするような人物では無い、と。

 よく聞けば明らかな冗談交じりだと分かるヘレナの口調には、初心な少年をからかって遊ぶ以外の意図など、無い。要はこの貴族、やたら尊大な口調や存在感溢れる佇まいとは裏腹に、とてもお茶目で、意地の悪い性格をしていたのだった。

「て、手を抜いているつもりはありませんっ!」

 しかし、ヘレナ
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