「爪を切る」という習慣はとても大切な事だと、僕は思っている。
爪の中に埃や垢が溜まって不衛生だし、伸びた部分をうっかり何処かに引っ掛けて爪を割ってしまったら。それならまだいい方で、仮に根元からバリッと剥がれ落ちてしまったら。そう考えると、怖くてとても伸ばしたままには出来やしない。実際僕は子供の頃、体育の授業中、伸ばしっぱなしにしていた爪をバウンドさせたバスケットボールに引っ掛けてしまい、大変グロテスクな事態に陥ったことがある。新しい爪が再生するまでの一ヶ月弱、あの瞬間の激痛と完治するまでの傷口の有様は今でも忘れられない。だからこそ僕はそれ以来、爪は伸ばしたままにせず、一週間に一度は必ず切り揃えることにしているのだ。
……まぁ、今ではもっと、その間隔は短いのだけど。
蛍光灯の明かりに照らされる部屋の中、柔らかなソファに背を預けて座り、切れ味の良い愛用の爪切りでパチパチと爪を切り落とす。爪切りのプラスチックケースの中身が爪の残骸で一杯になっていくのを想像しながら、僕は。子供時代の(物理的に)痛い記憶を思い出したついでに、そんな自身のモットーについて、ぼんやりと考え耽っていた。
「……ねぇ、爽司?」
「ん? 何だい、明歩?」
そんな僕の耳に、凛とした、それでいて優しい雰囲気を孕んだ声音が届けられた。僕の恋人、明歩のものだ。爪切りに集中していた意識を左隣に向けると、僕の腕にその細腕を絡ませてぴたりと寄り添い、小振りな頭を僕の肩に預けて座る彼女の姿が目に入った。僕よりも座高が低い彼女の後頭部に、ふかふかのフェイスタオルが被さっている様を眼前に臨む。同時に、先ほど入浴を済ませたばかりでしっとりと湿っている濡れ羽色のロングヘアから、嗅ぎなれたシャンプーの匂いが漂ってきて……男の本能故か、思わず反応してしまった股間の昂ぶりを胸中で宥めつつ、何事かと彼女に聞き返した。
僕の返事を聞いて、明歩は首を少しだけ動かして、今まで読んでいたファッション誌から視線を移した。余程気になる記事があるのだろう、メドゥーサである彼女の象徴たる頭の蛇達が、依然楽しそうにその身を揺らしてファッション誌を眺めている傍ら。彼女の双眸とそれに追従する数匹の蛇達の瞳が僕の方へと向けられる。……しかし誠に残念ながら、彼女が気になっていたのは僕自身では無いらしい。向けられた複数の視線は、今も僕が手にしている爪切りへと向けられていた。
……もしかしたら、爪切りの音が耳障りだったのかもしれない。
それとも、知らない内に爪が彼女の方へ飛んでいたのだろうか?
「……あぁ、うるさかった? ごめん、すぐに終わるから……」
「あ、いえ、それは別に気にしていないのだけど」
どうやら、特に煩わしかった訳ではないらしい。体重をこちらにゆったりと預け、自身の下半身、蛇の巨体の先端をゆらゆらと揺らめかせる明歩のリラックスした様子からして、爪が飛んで迷惑をかけていたという訳でも無さそうだ。ならばどうしたのだろうと彼女の言葉を待っていると、相変わらず爪切りを見つめながら不思議そうに口を開いた。
「……最近、やけに爪を切ってるなって。三日に一度は切っていないかしら? それ」
「あぁ……」
言われて、彼女が一体何を気にしていたのかを理解した。確かに僕はここ最近……というより、明歩と交際し始めてからというもの、爪を頻繁に切り揃えている。それまでは一週間に一度くらいの間隔だったその習慣は、今では三日に一度の高頻度だ。爪が伸びて白い部分が見え始めたら、その時点でカットしている。勿論、これには僕なりの理由というものがあるのだけど、何も知らない彼女からしてみれば不思議に思うのも無理はないだろう。
……さて。肝心の、その理由についてなのだけれど。
「そりゃまぁ、切らないと痛いだろうからね」
僕はあえて、回りくどい言い方で答えを返した。
彼女とこうして面と向かって説明するには、少しばかり気恥ずかしい内容だからだ。平静を装うように僕は、まだ手を付けていない残りの爪、右手の薬指と小指の爪を丁寧に切り揃えていった。
「……うん?」
対する明歩は、頭を僕の肩に預けたまま小首を傾げていた。
瞬間、心臓を貫く、キュンとした衝撃。恐らくは無自覚なのだろう、普段のクールな様子からは想像だにできない小動物めいた可愛らしい仕草は、僕の心を不覚にもときめかせていた。恋人である僕だけが特別に見ることの出来るその姿は、下手をすれば深爪してしまいかねないほどに手元を狂わせてくる。加えて僕は右利きだから、左手での細かい動作は当然不得手だ。明歩の目の前で怪我をして心配させるのも嫌なので、彼女が潜在的に持つ愛くるしさに鼓動を高鳴らせつつも、出来る限り慎重になって爪先を整えていった。
「……
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