『恋するCollared Girl』

『恋するCollared Girl』

「では、今日の講義はここまで」
 講堂に響く教授の一言を最後に、ようやく一時間半の授業が終わった。
それとほとんど同時に、静まり返っていた学生たちが立ち上がり、室内が身支度の音や話し声でざわめきだす。暖かくも淀んだ空気が学生たちによって動き出し、早くも誰かが開けたドアからは廊下の冷気が吹き込んできている。
「ふぅ、終わった終わったぁ〜」
先ほどまでとはうって変わって、講堂は喧騒に包まれる。
学生たちのざわめきの中で、俺――大上玲司もまた一つ息を吐き出した。
この教授の講義は生徒を当てるようなことはないので、楽といえば楽なのだが、ただ聞いているだけというのも、学生としてはつらいものなのである。
「さて、と」
 首を回し、背筋を伸ばして固まった身体をほぐす。ノートとテキストを閉じると、傍らに置いたバッグへと押し込んだ。腰を上げ、隣の席に無造作に掛けておいたコートを羽織り、最後にもう一度忘れ物がないかを確かめる。
長々とした講義から解放された学生たちの多くはさっさと出て行ってしまったらしく、既に講堂内の人影はまばらだった。長居するつもりもないので、俺も彼らに倣い講堂から出た。
暖房の効いていた講堂内から一気に下がった温度に、思わず首をすくめる。
「建物の中でも、結構寒いな……」
窓から空を見上げれば、灰色の雲が一面を覆っていた。
「ひと雨来そうだな……」
降り出す前にさっさと帰ろうと考え、視線を戻す。廊下には行きかう学生たちの姿のほかに、あちこちで仲の良い友人同士が固まり、雑談に花を咲かせている。
と、廊下の向こうから見知った顔がこちらに向かってくるのが見えた。
他の学生の邪魔にならないようにしつつ足を止め、俺は小さく彼女の名を呟く。
「お、慧か」
 視線の先に見える、彼女は戌井慧。
俺にとっては高校時代からの知り合いで、同じ大学に進学したあとも変わらずに付き合いを続けている。ラフなショートカットに強気な瞳、無造作に着た上着にシャツ、下半身はホットパンツにスニーカーという見た目からして男勝りな人物だ。大学に入ってもそれは変わらず、話を聞くに、周囲からはやはり「男女」扱いされているようだった。
(本性は全然違うんだけどな……。ま、そうそう染み付いたものは変わらないか)
実際、高校時代の俺も彼女との付き合いはほとんど男友達とのそれといった状態だった。
もっとも、今ではその関係性は出会ったころとはずいぶん変わってしまったが。
と、見つめる視線で俺が気付いたと理解したのか、慧は心底嬉しそうな笑みを浮かべ、いっそう足を速める。学生たちでごったがえす廊下を、人々の隙間をまるでサッカー選手かなにかのようにするするとすり抜け、俺のところへとやってくる。
彼女は走りながら大きく息を吸い込み、次の瞬間、開いた口から大声を上げた。
「れいじーっ!」
黒髪を揺らしながら、廊下の真っ只中で俺の名を呼ぶ慧。その声は学生たちの話し声でざわめく中でも、はっきりと良く通った。流石は、かつて運動部で鍛えた肺活量だと感心すら覚える。
――俺が当事者でなければ。
突如響いた声に、人々が何事かと振り向く。彼らは廊下を全力疾走する少女の姿を見、驚きの表情を浮かべ、次いで彼女の視線の先にある俺へと顔を向ける。期せずして好奇の視線を一身に集める羽目になった俺は、思わず顔を覆った。
「あの、バカ……っ」
 せめてもの抵抗に、そう呟く。おそらく、今の自分は耳まで真っ赤になっているだろう。頬の熱さを感じながら、小さく悪態をつく。
「おーい、れいじれいじーっ!」
 その元凶たる慧は、満面の笑顔を浮かべたまま俺の名前を連呼し、ぶんぶんと大きく手を振る。表情はこれ以上なく上機嫌で、一歩近づくごとに輝きを増し、肩にかけたショルダーバッグが飛び跳ねる。そこに、視線が集中する羞恥と居心地の悪さを味わうハメになった俺に気付いた風はない。
「れーいーじーっ!」
 彼女が俺の名を呼ぶたびに集まっていく周囲の目。あるものは面白がり、あるものはうらやましそうにこちらに向ける視線に、俺の精神がごりごりと削られていく。
正直、今すぐこの場から逃げ出したい。
が、流石に「彼女」を置き去りにして立ち去ることも出来ず、俺はこめかみを抑えたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
その間に俺の前へと辿り着いた慧は、こちらの顔を覗きこみながら口を開く。
「おーっす」
「おーっすじゃねえよ、慧」
 遠巻きからちらちらとこちらを窺う視線を感じ、俺は頭痛を堪えながら返す。
「お前、人の名前でかい声で連呼すんなよ、しかもこんなところで」
「え〜? 別にいいじゃんかよ」
「よくねーよ。じゃあお前は雑踏の真ん中で、大声で名前呼ばれたらどうよ」
「え? 玲司が呼んでくれたら嬉しいけど」
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